建築家で大工で、そして解体屋。サロネンのマーラー『悲劇的』
(2017年5月21日)

カテゴリ:見聞きした

フィルハーモニア管弦楽団演奏会 指揮:エサ=ペッカ・サロネン

2017年5月18日 オペラシティ・コンサートホール

ストラヴィンスキー:葬送の歌 op.5 [日本初演] マーラー:交響曲第6番イ短調 《悲劇的》

サロネンを嫌うという人はあまり聞かないが、熱烈に好きという「信者」が多い印象も薄かった。来日した時の演奏を聴いた経験だと、「冷静なようでいて、気がつくと相当盛り上がる」タイプという感じで、一度聴くとファンになる人はいるんじゃないか。

というわけで、マーラーの「悲劇的」は相当期待して早めにチケットを入手したのだが、同じような人が多いのか、満員御礼。

男性一人の客が多いという、まあ後期ロマン派にありがちな雰囲気だ。

「悲劇的」は、なぜか最近よく聴く。2月のN響、3月の音楽大学フェスティバル・オーケストラに続いて今年3回目だ。

そして、圧巻。冒頭は、オケの調子も「ならし運転」的な感じもしたけれど、呈示部をリピートしたあたりから暖まってくる。サロネンは、結構左右に振れつつ弦には細かく指示を出すが、菅は「基本お任せ」という感じだ。もちろん、よくわかっている手兵だからスムーズに鳴る。
オペラシティのホールは、こうした大編成の曲だと”ウワンウワン”と響きすぎるという人もいて、たしかにそうした傾向はあるけれど、この日は気にならない。オケがコントールしているのだろう。

フォルティシモでも包容力のあるゆったりした響きで、安心して聴いてられる。

「悲劇的」をライブで聴くたびに思うんだけど、この曲の凄さはフィナーレの再現部辺りからの最後の10分くらいにあるんじゃないか。それまで作り上げてきたことを、あえて破壊するような構成とサウンド。

構築物が、ズタズタにされていき最後の一撃。それ自体が、マーラーの仕掛けなんだと思う。「立派な建物も、ほらバラしてしまえばこんなもの」と、見せつける。それは「立派な」5番の後に、敢えてやっているんじゃないかと思う。だからハンマーなどに過剰な意味づけをしても仕方ないし、そもそもこの曲は痛切な感情とはどこか遠い。
だからこの曲は「悲劇的」だけど、「悲劇」を描いたものではないと思う。

サロネンは作曲家だ。曲の構造も、また「ばらし方」もよく知っている。建築家であり、大工であり、解体屋。ただ、舞台の上では相当な激情家だと感じる。

だからフィナーレの解体も整然としているようで、なんか勝手にみんなが打ち壊しをやっているようなところがあって、それがマーラーの意図を浮きだたせたんじゃないだろうか。

もちろん、聴衆の魂を相当に揺さぶってくれる。

終演後、しばしの沈黙。そういえば、この日の客は相当集中していたと思う。昨年ラトルが舞台で挨拶して、東京の聴衆のconcentrationを絶賛していたがあながち世辞ではないんだろうなと改めて思う。

いい感じのピリッとした張り詰めた空気と、それが緩んだときの解放感。この夜の客の何割かは、サロネンの「信者」になったんじゃないだろうか。

※このインタビュー集は、マーラーの「現在」を知るのに最適かもしれない。サロネンのインタビューもあるけど、個人的に一番面白かったのはブーレーズ。「マーラーの音楽は、行進曲と葬送とレントラーだけ」って、そりゃそうだけど。