3月10日の日経流通新聞は東北観光の特集だった。震災から6年を前にしての企画だが、インバウンドの急増とは無縁で日本人客にも敬遠されがちで「観光産業の復興は鈍い」と書かれている。
特に、福島県は厳しいようだ。
その中に外国人観光客を呼び込んだ成功例として「磐梯山温泉ホテル」のケースが取り上げられている。「外国人が少ない」ことを逆手にとったということで、経営する星野リゾートの星野佳路社長のインタビューが掲載されていた。
その中で「福島の件名変更が観光には一番プラスに働くと思っています」という提案をしていた。「海外で営業して魅力を語っても『フクシマ』と名前を出した途端に拒否反応が出ます」と、実体験から言っているのだろう。
さて、この提案をどう思うか。もちろん言った本人も「色々なセンチメンタルな反論があるのも分かりますが、実際に海外に営業に行って反応を聞いてみてほしい」と言う。みんなが諸手を挙げて賛成するとは本人も思っていないのだろう。
この「県名変更」だが、福島原発は「県名」を冠した発電所だ。原子力発電だと、他には「島根」だけで、このことが「福島丸ごと」のイメージダウンになった一因だ。そして、星野氏の発想にはある種の合理性があることは確かだと思う。
しかし、何かが引っかかる。そして、その引っかかりは決して「センチメンタル」なものではない。県名の変更は「合理的に見えて実は非合理」なのではないか。
ことばが示す対象に、マイナスの連想が働くのであれば、そのことば自体を変えるというのはマーケティング的には合理的だ。トヨタが米国で高級車を販売するのにTOYOTAではなくLEXUSとしたのもそういう発想からだろう。
たしかに、「福島/Fukushima」を隠すことは、それなりの成果を上げるかもしれない。特に外国人は日本の県名を細かく知っているわけではないだろう。
しかし、福島という名前を消すことができたとしても、「福島を消した」という事実が新たなに発生する。仮に新しい県名になったとしても、それは「名を隠さざるを得なかった県」であることを想起させるだろう。
地名はブランド名に「なることもある」だろうが、ブランド名とは異なるところもある。人はどこかで生まれて、どこかで暮らしている限りは、「人と地名」は嫌でも切り離すことはできない。
その地名にマイナスの意味が付与された時に「じゃあ名前を変えるか」といういうことは、人と地名を結びつきを切るということだ。その時に、心理的に何が起きるか。「ああよかった」というより、後ろめたさや屈辱感が起きればプラスにはならないだろう。
それはセンチメンタルな発想ではないんじゃないか。
地名は、人々の共有物だ。社長が独断で社名やブランド名を変えるのはいいけれど、同じ「名前」でもまったく性格は異なる。
土地を開発する人なのだからそのくらいはわかっていると思うけど、なんか、この人の経営する宿には足を向けようという気にならないなぁ。