年の瀬になり、振り返って書きたいことはいろいろあるけれど、一度自分の中でも整理しておきたいなと思うのが「働き方」に関することだ。
10月に電通で過労死の労災認定がなされて、その後は厚労省による強制捜査という異例の事態になった。自分も新卒から18年間広告会社で働いていたし、現在でもビジネス上や私的な関係もある。またキャリアに関わる仕事をしているだけに、いろいろと感じることがあったのだ。
まず、いろいろと議論になった「長時間労働“だけ”が原因なのか」ということについて、改めて整理しておきたい。こうした不幸な事件が起きると、超過勤務の量が問題になるけれど、それを制限すればいいのか?という疑問は耳にした。
ただし、この疑問にしても人によってニュアンスが異なる。
「時間だけ制限しても、いわゆる“サービス残業”になってるでしょ」という声。これは、一般的なサラリーマンの感覚のようだ。
また「そもそも長時間労働だけが、原因なのか?」という疑問もある。これは、その通りで、たしかに労働時間が短くても追い詰められることもある。
ただし、広告業界にいた人などは、ここから別のロジックを語ることがある。
「長時間労働でも平気な人もいるし、一律の時間制限や消灯などは無意味じゃないか」という意見だ。
たしかに、「平気な人」もいる。ただし、いろいろな声を読んでみたが、こういう意見の人自身が「平気な人」なのだ。
ちなみに、僕は長時間労働が「平気な人」ではない。それが社内転職した事情の一つであることはこちらに書いて、いろいろな人から「わかります」という声をもらった。
当たり前のことを書くと、長時間労働に対する耐性は人によって異なる。これが個人事業主なら、好きなように働ければいいだろう。
ところが広告を含めたメディア産業は、「この業界は忙しいぞ」ということを、先輩たちがハッキリ言うし、それに対して「覚悟してます」という学生が飛び込んできたのだ。私的な会話だけではない。会社案内のバックナンバーを見れば「社員の一日」なども、「多忙だけど充実」を謳っている。
だから「一律規制」については、懐疑的な意見もある。そして、かつての在職者の声を聞くと、「大変だけど、それだけのやりがいあったしな」という人もいて、それはどちらかというと「寂しさ」に近いものもあるだろう。
僕も、一律規制には懐疑的だったのだが、こうした議論を聴いているうちに考えが変わった。総時間規制は必要だと思う。理由は、幾つかある。
まず、長時間労働「だけ」がこうした労災案件の原因ではないにせよ、多くのケースを分析すれば長時間労働と一定の関係が認められるからだ。
気になったのは「自殺の原因」の議論をする人が多かったことだけど、それ以外にも山ほどの「適応障害」があって、それはもちろん過重労働と深く関係する。
また、長時間労働が平気な人の基準を認めたら、それを拒む人の声が届くのかが疑問だ。「時間的に頑張る人」が結果的に評価されているとすれば、過重労働は悪者になりにくい。そうなると、時間を目安にすることはベストではなくてもやった方がいいだろう。
そして、かつて「長時間でも大丈夫だった」人は実は特殊な条件で働いていたのではないだろうか。
きわめて同質性が強く、過酷な努力に対しも一定の成果や報酬が期待できる――そういう時代を生きた人が「時には頑張ることも必要なはずだ」と言っているように感じるのだ。
ただし、それは現在において通用しないと思う。
だから「自分はこれだけたくさん働いた」と言うのは、もうやめよう。というエントリーを書いたのだが、この時の気持ちを再度整理して書いてみた。
※なお、その際のエントリーでも紹介した下記の「自殺稀少地域」についての本は、広く関心を持たたれているようだ。