六本木のダリ展に行った。会期末とはいえ水曜の16時過ぎだったので、どうにかなるかと思ったら20分待ちだった。まあ、どうにかなる程度の混み方ではあるけど、来週月曜までなので、この週末は混むだろう。
最近の美術展にしては、若い人が多い。学生のようにカジュアルな格好の人が目立つが、スーツを着ている人や、小さい子どもを連れた人もいる。
警備員が「危ないですから」と客に声を掛けていて、どうしたのかと思ったらスマートフォンでゲームをしている若いスーツ姿の男性だった。20分も待って入って、どうして絵の前でゲームをしたいのかと思ったけど、そんな感じで普段展覧会に来ていないような人も多い。だから混んでいるんだろう。
後ろの方で、カップルが会話していて、女性の声が聞こえる。
「やっぱり、色が違うわ~。私、プリンタの色って嫌い」
「おまえ、それが“差”というものやろ」
「わかってるわ!そんなこと言ってるのと違う!」
という感じで、関西弁で炎上しそうなカップルもいて、まあフツーの展覧会とは違う賑やかさだった。
それにしても、ダリというのはユニークなポジションの作家だ。有名な作品を見れば、「ああ、これがダリか」というくらいよく知られている。一方で、その思想的なバックボーンをキチッとわかっているかというと、そうでもなかったんだな、と今回の展示で改めて感じだ。
初期作品をこれだけ見たのははじめてだ。
考えてみると、僕が学生の頃は、ダリをはじめとしたシュルレアリズムの展覧会が多く開催され始めていた頃だ、西武がまだ「セゾン」なんて名乗らなかった頃で、まだあちこちの百貨店が美術館を持っていた。
公立系の美術館よりも、そうしたところで開催されていたのだけれど、僕も結構行ったと思う。
印象派などはいかにも「ベタ」だし、かと言って抽象画はわからない。そういう時に、シュルレアリズムなどは「アート知ったかぶり」をして、文化的気分に浸るのにちょうどよかったんだと思う。
そして、いまや日本語で「シュール」という言葉が定着していて、「シュールな笑い」のように誰もが使う。その由来は「シュルレアリズム」のアートなんだろうが、「非現実的」「ぶっ飛んでる」くらいのニュアンスだろう。もっと昔だと、「ナンセンス」と言われていたような感じだろうか。
ただ、そうして「シュール」と言っている人も、その由来の絵を見ているとは限らない。
そして、「シュール」の本家本元の絵を、確認する。「そうか。これが、あの“シュール”の元だったのか」と。
日本におけるダリ展というのは、そういう意味もあるように思う。
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