あらためて「働き方」について考えたり、自分のことを振り返ることが多い。一つの事件と、そこから出てきたさまざまな意見が気になって、いろいろと思い出したり自省する。
そして、いろいろな人の声、特に「大人」から若い人への呼びかけは、必ずしも届かないのかな、と思ったりもする。
たとえば、仕事や職場がつらければ「逃げろ」というメッセージだ。それは、たしかに正しいように思える。
でも、自分だったらどうだったんだろう。先週にも「コソコソと定時退社をしていた記憶。」という記事を書いた。あまりにも勤務時間が長いクリエイティブから「逃げた」話でもあるんだけど、それはたまたま幸運だったこともある。
会社ごと辞めようとか、まったく考えてなかった。それは、転職ができるかどうかという発想以前の問題で、逃げるのは「最後の手段」だと思ってた。
つまり、まだまだ「もう少しは頑張れる」という思いがあったのだろう。
ところが、そのうち頑張ることができなくなって、そうなるともう「逃げる力」もなくなるのではないか。いわゆる「ブラックバイト」だって、同じで「辞めればいい」で辞められない理由は、当事者にしかわからない。
逃げようとしても、足がもつれて前に進めない。よく、夢を見ている時にそういう感覚になることはないだろうか。
そういう状況は、現実の世界でも当然に起きてしまう。僕はそこまでの経験はないけれど、想像はできる。
そして、自分はたまたま運に恵まれていたし、平均よりはタフな方だったんだろう。だから、自分で職場環境を選べた。
そう考えると「逃げろ」という時に、ふとためらう。
それは、たまたま「逃げる力」を持っていた人の発想なんじゃないか。メディアでそうしたことを言ってる人、それだけ発信力のある人はみんなタフで自立している。
だからこそ、自由に発言するだけのポジションにあるけれど、埋もれてしまった声だって見えないところにたくさんあるんじゃないか。
若い社会人や学生と話して、いろいろなケースを聞いて来た。以前は「もっと強くなってほしい」という気持ちで指導してきたが、最近はその前提を自分で疑い、自省することもある。
では強くなれない人に、「弱いままでいい」と言うことが救いになるのか。いや、実はそういう人たちだって強くなりたいんじゃないか。そう考えると、結論なんかなく、アタマなの中で堂々巡りになる。
でも、「こうすればいいじゃない」って、言うのは簡単だ。そういう前に、「そうすること」ができない人の気持ちになってみてもいいんじゃないか。そうしたら「逃げろ」じゃなくて、また別のメッセージを発せられだろう。そして、「逃げ方」の仕組みの議論になるのかもしれない。
だから、言葉を発することと同じくらい、言葉をためらうことも大切だと思っている。