広告代理店の営業について、いろんな会社の人、つまり広告主サイドから話を聞くのだけれど、ここ10年くらいは同じような傾向だ。
一言でいうと、「困った時に相談できない」という。その理由は単純で、広告テクノロジー関連の知識が浅いからだ。マス広告以外のことだと、メディアでもクリエイティブでも「スタッフを連れてきます」になる。(ちなみに今日の話で念頭においてるのはいわゆる「総合広告代理店」のことだけど、ネット系においても実情は色々のようだ。)
ただ、連れて来るだけなら誰でもできる。
かつての営業はスタッフを仕切りつつも、一定の専門知識を持っていた。だからこそ、どのスタッフが優秀かがわかる。つまり、優れた目利きだった。そして、ビジネスにおいては、「多頭立ての馬車」を操る馭者のような存在だった。
だから、当人に専門スキルがなくても存在価値があったのだ。
ところが、広告ビジネスはインターネットによって「一から勉強」の必要が出てきたが、それが面倒な営業はとりあえずスタッフを「連れてくる」。ところが、目利きの仕事になっていない。
そこで、広告主は「営業のグリップ力が落ちた」という。馬車の馬が勝手に走っているような状態になってきた。
こうなると、営業の存在価値は低くなるし、場合によってはビジネスを混乱させる。
そもそも、広告業に限らず営業職の「職能要件」の定義は難しい。つまり、営業スキルというのは、他の専門職のように言語化しにくく、属人的で、資格などもない。だから「人間力」とか曖昧なものに頼ろうとする。
そのうえ「決してお得意の前でノーとはいうな」とかいう教育を受けて、それをそのまま実行したりする。
だから、メーカーなどでも需給のひっ迫した人気商品の受注を「大丈夫です!」とか軽々受けて、あとから大騒ぎになるようなこともあったりするのだ。
そして広告ビジネスだと、この「できます!」という言葉のハードルが妙に低い。競争が激しくなり、決まった期間と予算で期待以上の効果をあげたいクライアントの気持ちに過剰反応するのだ。
そもそも、広告代理店の営業は期待値コントロールがあまりうまくない。できないことも、とりあえず「できる」と言っておいて、後からどうにかなるだろうという発想が多い。
と言う話をしたのは、例の電通のデジタル不正の背後にはこうした構造があるのではないかと思ったからだ。ああいう「未必の故意」は、後に引けなくなったらから起きたのではないかと推察している。
それは、いまのように広告営業の専門知識が低くて、もはや仕切りきれていない現状ではではどの会社でも起きるだろう。
既に広告主の中にも、プロは誕生しつつある。そうした人は、広告代理店あるいはプロダクションやメディア企業の「プロ」と直接仕事をしたがる。そして、「営業よりも専門的知識のあるプロと仕事をしたい」というニーズは着実に高まっている。
スキルが専門化していく時代に、どの業界でも営業の存在意義は厳しく問われている。そして、その傾向がもっとも顕著なのが広告の世界だと感じている。