先日、N響のコンサートを聴いて改めて思ったのだけれど、ムソルグスキーという人は「編曲意欲」を掻き立てる作曲家だったんだろうと、改めて思う。
「はげ山の一夜」の原典版はたしかに野趣あふれて面白いんだけど、それはリムスキー=コルサコフ編曲を知った上でのことだ。
あの編曲がなかったら、やはり「珍曲」として歴史の中に埋もれたようにも思う。少なくても、日本の教科書には載らなかったし、「ファンタジア」で使われることもなかっただろう。(たしか中学の教科書の鑑賞曲だった記憶がある)
そう考えると、腕っこきの作曲家にとってムソルグスキーの曲は、相当に「編曲意欲」を掻き立てられるものだったのだろう。
オーケストラ編曲も、ラヴェル以前に手がけたものがあるようだし、ピアノもリムスキー=コルサコフが編曲したものもある。
その上、ELPや冨田勲などもアレンジをしている。原典版として有名なのはリヒテルだが、そもそもそこに拘る必要はどれくらいあるんだろう?とも感じる。
個人的に、一番楽しめるのはホロヴィッツの編曲だ。超絶技巧というだけではなく、組曲を劇的なものに仕上げているところに魅力を感じる。特にキエフの大門の「わけのわからない感じ」というのは、何度聴いても凄くて、客も「何かわからないまま熱狂している」感じだ。
録音はモノラルだが、このホロヴィッツ編曲を弾いたアンスネスのディスクも気に入ってる。ただ、いま買おうとすると妙に高いのが残念。
オーケストラだと、ショルティ=シカゴ響がすっきりとして、かつキラキラしている。カラヤンは、冒頭のトランペットのビブラートが気になって、そこが好きだったらいいと思うんだけど。
と、書いていて先日から気になったのけど「キエフの大門」って、何て読むんだろう?
個人的には「たいもん」だったし、周辺でもみんなそう言ってる気がする。ところが、変換すると、少なくてもMS的には「おおもん」か「だいもん」しか変換しない。「だいもん」は駅名なので辞書には入ってるんだろうが、ちょっと馴染まない。
「おおもん」だと、どうしても「吉原の大門」を連想する。
そんなもの連想するな、と言われそうだが、落語を聴く東京っ子としては、「それが普通だろ」としか言いようがない。だから、「キエフの街に柳があって、門をくぐると不夜城」とかのイメージで、あの曲が全然違うものになる。
これについては、ネットで調べてもQ&Aサイトにはいろいろあるけど、何か決着がついてない。「キエフの大きな門」という表記もあるらしいが、あまりにも間延びしている。
こうなると、NHKが「キエフの大門」を発音するのを待つしかないのだろうか。
とりあえず、このエントリー以降「キエフの大門」と書くことはしばらくないだろうが、とりあえず「たいもん」で辞書登録すべきなのか?とか考えてしまうのだけど。
【追記】そのご手元のipadで「たいもん」と入れたら「大門」と出た。それにしても「キエフの大門」以外、日常会話で「あの大門をくぐって」とか言わないから、よくわからないんだよな。