昨日近所の店で1人でランチをしていたら、隣の客が夏の終わりを嘆いていた。
女性2人なのだが、「もう30日なのに」とため息気味だ。しようと思ったことは殆どできず、本棚の整理がやっとだという。もう1人も相槌を打ちつつ、9月からに備えようかと励まし合っていた。
途中でわかったのだが、地元の中学校の先生だった。そうか、生徒が焦っている頃、先生も嘆いてる。なあんだ、「夏休みの宿題」やっていないんだ、と生徒が聞いたら喜ぶだろうな。
いずれにせよ、こうした夏の終わりの寂しい時は、ゆるゆると気を持ち直すしかない。晩夏に限らず、そういう変わり目の季節は「老子」が何とも沁みてくる。沁みる、というと単にしみじみするだけのようだが、老子にはそれなりの不思議なエネルギーがあって、読み返してしまう。
さて、夏には遠出した人も多いだろうが、そうもいかなかった人もいるだろう。いろんな旅する人の話を聞いて思うのだけど、「旅の数や距離と、本人の知恵や見識はあまり関係ない」ということだ。
学生の頃は違った。「1人で世界一周」みたいな経験はそれだけで凄いんだなと思ってた。ただ、段々と「だから、何なんだろう」と思うようになってきた。
ひところは、就職活動で「旅の経験」を語る学生が多かった。世界一周はさすがに少ないだろうが、米国やユーラシア横断などだと、たしかに「語れるネタ」ではある。だから「僕は海外行ったことなくて」という不安を訴える学生もいた。
しかし、どれだけ遠くに行こうが、長いこと日本を離れようが、話をしてみると単純なことに気づく。
だから旅に行かなくても、思索をする人は、どこにいてもじっくり考える。そうやって日頃から学んでいる人が旅に行くと、たしかに深い話が聞けるのだ。
で、老子だけど、こんなことを言っている。
「其の出ずることいよいよ遠ければ、其の知ることいよいよ少なし」
あちこち行くほど、知ることは少ないという逆説である。この前後をよめばわかるが、何も「家から出るな」という話ではない。見聞だけでわかった気になるな、ということなのだ。
手元の老子は、講談社学術文庫と岩波文庫の二冊があって、なぜか両方に付箋が貼ってある。ちゃんと比較などしてないのに、どうしてそうなってるのかわからない。
価格は同程度だが、前者は300頁弱で、後者は450頁くらいだ。注釈の多い岩波が得のようだが、持ち歩くには講談社の方が楽だ。しかし、岩波にはkindleもある。
訳文はどちらも十分によみやすい。
老子は30代後半の頃から関心を持った。ちゃんと研究しているわけではないが、手元にあると、なぜか気持ちが落ち着く大切な一冊だ。