まだ報道の段階ではあるけれど、天皇が退位の意向を示されたという。手続き的には皇室典範の改正になるが、いわゆる「譲位」についての規定を決めるのは相当難しいかもしれない。
明治以降は譲位を想定していないのだが、それは政治的な恣意性を避けるためと言われている。
江戸時代は、徳川幕府と朝廷の間にさまざまな駆け引きがあった。幕府の意向、つまり時の実質的政治権力が天皇の即位に影響を及ぼすこともあったわけだ。
そんな古い話を、と思われるかもしれないが現在の典範の規定は歴史的な教訓を含んでいると考えていいのだろう。
江戸時代の朝幕関係で、もっともドラマチックなケースは、後水尾天皇を巡る話だろう。徳川家は二代将軍秀忠の末娘和子を入内させて、天皇家の外戚となることを目論む。
ところが朝廷への監視を強める幕府との間にトラブルが絶えず、婚儀の9年後に後水尾天皇は退位する。この辺り「紫衣事件」などが特に有名だ。
その後9代の天皇の退位理由を見ると、7人が譲位でしかも20代から30代の間におこなわれており、即位した天皇は20歳以下だ。このような運用が実際におこなわれていたことになる。
さて、入内した和子だが早々に後家の立場に祭り上げられる。その一方で退位した後水尾上皇は、40名近い子女を誕生させているのだ。
そして和子はどうしたかというと、ひたすら消費活動に走った。「服道楽」である。とはいえ、いまの時代に高級ブランドを買いあさるどころの話ではない。72歳で亡くなる歳でも、半年で現在の貨幣価値で「億単位」の注文をしている、
そして、その注文先は御用呉服師「雁金屋」なのだが、その若旦那が尾形光琳である。雁金屋の経営は破たんするが、相続した資産で遊蕩し画業を手掛けて数々の傑作を残した。
というわけで、朝幕のあつれきと駆け引きは琳派の誕生にまで結びつくのだが、問題は服の原料である絹をどう調達したのか?ということだ。
当時は国産の絹は品質が低く、中国産の輸入生糸を輸入した。で、その際に何と交換したかというと金や銀なのである。
この当時の日本は世界でも有数の金銀産出国だったが、どんどんと糸に消えていく。この辺りを心配した人物の一人に新井白石がいるが、何といっても当時は米本位の時代である。「米は食えるが、金銀は食えない」という、正しいけれど正しくないような意見があって、やがて日本の金銀は底をつく。
徳川家から天皇家への嫁入りがこじれて、その後の譲位は服道楽や琳派につながり、やがて資源の話につながり、そうして歴史は動いていく。一方で生糸の輸入が困難になったことで、国産の品質向上が図られて製糸産業は明治以降の日本を支えることになった。
天皇家の歴史は、日本史のさまざまなシーンでとても大切な役割を担っているのである。
この辺りのことは、大石慎三郎氏の「江戸時代」(中公新書)を参照にした。この話以外にも、教科書は見過ごされるような視点で江戸自体の社会や政治がクッキリと見える名著だと思う。