子どもの頃、夏休みになると周りの友達が「いなかに帰る」という。
ところが、この意味がよくわからなかった。僕は父の祖父母と同居していて、両親ともに東京出身である。一体「いなか」ってどこなんだろうか?というのがピンと来なかったのである。
妻の出身地は東京ではないのだが、夏は結構暑い。一度夏に行ったが、皆で部屋でメシ食うくらいしかすることもなく、帰省は他の季節になった。
というわけで、盆の頃は東京にいる。
ただ、それだけだと芸もないので都内か横浜のホテルに泊ったりしてみたんだけど、これが結構楽しい。会社を辞めた頃から続けているので、10年以上になる。
何をするかというと、まあ大体は読書だ。
印象的なのが、2005年の夏のこと。行きがけの書店で買ったのは佐野眞一の「阿片王」だった。第二次大戦時の満州の闇を描いたドキュメントだったが、部屋から見えるのは首相官邸と議事堂だ。しかも郵政解散で、永田町はガラガラ。8月15日に霞が関界隈は半旗だった。
泊まったのは今はなきキャピタル東急だった。というか、今も同じ名前で同じ場所にあるけど、名前以外は全く違うホテルになって、泊まったことはない。 >> 都心のホテルで、「大人の夏合宿」のすすめ。の続きを読む
それにしても「なぜ弱者を大切にするべきか」という理由をわかりやすく説明することは難しい。少なくても、「優しくしましょう」という情緒的な説得だけでは限界がある。
ただ、「弱者の視点で考える」ということは、相当に合理的だと思うので、ちょっと書き留めておきたい。
会社員時代に新人教育を3年間ほど担当したことがあった。その時にアタマの中でこういうコンセプトを持っていた。
「新人は会社の中で最も弱者なのだから、最大の資源を投入するべき」という考え方だ。
これは、実際にはほとんど口にしなかった。説明し始めると結構難しいのだけれど、学生時代にロールズなどの社会正義論を学んだこともあったので、自分なりに前からやってみたかったのだ。
結論的にいうと、この発想は正しかった。
何かの講義で、新人が「わかりにくい」というのは、よく研究すると話し手に問題がある。新人は知識面では最弱者だが、彼らに分かりやすく話せる人は外にいってもプレゼンテーションがうまい。
また、配属後に新人が行き詰ったりするときも、彼らが最弱者であると仮定すると、その組織の問題がよく見える。いろいろとうまくいってない組織は、いきおい新人にしわ寄せが行く。
つまり、弱者を基準に環境を最適化することは、全体にとっても最適化をしていくことになるのだ。 >> 弱者を大切にするのは合理的だと思う。の続きを読む
知り合いに、あちらこちらと食べ歩き、たいそう詳しい人がいる。それを半ば生業にしているので大したものだと思うのだけど、ちょっと言葉が危ういとことがある。
「あんな店、うまいという奴の気がしれない」
この手の言い回しがやたらと多い。会って間もない人、つまりお互いの好みもわからない人がいる前でもそんなことをいう。
食の好みは、人それぞれだ。とは言え、食べるだけでは満足できずに、評してランク付けまでする人もいる。
そして「ああ、あの店はちょっと苦手だな」といえばいいものを、なぜか客をまで貶めたがる。なんで、そうなるのかはわからない。ただ本人が気づかないうちに、相当友達を減らしているんじゃないだろうか。
何かへの好き嫌いは誰にでもある。ただし、そういう時に「それを好きな人」を攻撃する心理とは何なのだろう?
ポケモンGOのブームで一番面白かったのは、そういう批判をする人を観察できたことだ。 >> ピカチュウは、「文化人もどき」を教えてくれる。の続きを読む
2000年前後のことだけど、日本にはフランス系の「指導者」が相次いでやって来た。日産に来たカルロス・ゴーン、サッカー日本代表のトルシエ辺りは一般的にもよく知られているが、N響の音楽監督のシャルル・デュトワもそうだ。
みな信念のしっかりしたリーダーだ。ただしいまでも君臨しているのは、ゴーンくらいで、N響は後任にアシュケナージを選んだ。
別に指揮者としてすごく変なわけではないし、実績もあるけれど、なんだかガッカリした覚えがある。デュトワの強いリーダーシップに疲れたんじゃなないか?という印象を持った。サッカーの後任も含めて、まあその結果について今さら細かく書くつもりもないが。
いっぽうで、ピアニストとしては、20世紀後半において重要な存在だったと思う。いま聴いてみると、「こう弾くのは、できそうでできないんだよな」と思うことも多い。
最後にピアノを聴いたのは1998年の来日公演で、シューベルトのイ短調ソナタだった。その時に61歳だったが、今年は79歳。そんな齢になっているのか。 >> 正しく、深く、美しい。アシュケナージのモーツアルト。の続きを読む
指揮:アラン・ギルバート
2016年7月24日 14:00
モーツァルト:交響曲第25番 ト短調 K.183(173dB)
マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調
さまざまなクラシックの曲の中で、「この一瞬がゾクゾクする」というのは、人によって違うと思うんだけど、自分の中でもっとも好きなところの1つが、マーラーの5番のフィナーレに入るところだろうか。
ホルンの動機からファゴット、そしてクラリネット、やがて弦楽器が厚い音を奏でるまでの独特の解放感がたまらない。
霧の中から、黄金色の光が差してくるような一瞬だ。
ただこの日の解説にも「勝利」という言葉が使われているが、どうもそれには違和感がある。
ベートーヴェンのような凝縮感のあるフィナーレとは対極で、さまざまなモチーフが明滅するように現れてくる。何色もの糸が気ままに放り出されていくようで、気がつくと絶妙に編みあがっていくような構成とオーケストレーションも素晴らしい。
今日も、その一瞬を想像しながらホールに行ったが、驚くほどにいい演奏だった。
この日のギルバートの音作りは、弦を基盤にしてキッチリとアンサンブルを積み重ねていくアプローチだった。大向こうをうならす「爆演系」ではないけれど、気がつくとフィナーレの最後では相当の盛り上がりになっている。
オーケストラの主体性を引き出していく音作りで、長いフレーズでゆったり歌わせる。管楽器の能力をきちんと引き出すから、トランペットやホルンも相当の水準だった。単にうまいのではなく、歌が聴こえてくる。
直前に予定が空いてフラリと行ったのだけど、それでこういう水準の演奏が普通に聴けるというのは、東京の楽壇って層が厚くって質が高いんだなと改めて思った。
一曲目のモーツアルトの集中力で、いい演奏会になりそうな予感があったけど、アラン・ギルバートはニューヨークフィルも円満退任のようだし、都響が定期的に演奏できればなあと妄想する。彼のように、音を積み上げるタイプの指揮者は日本のオーケストラの潜在能力を引き出すと思うのだ。
夏休みでコンサートが少なくなる前の、いい出会いだった。