泡坂妻夫という名を聞いて、「そうそう」と思う人は少ないかもしれない。1933年、つまり昭和一ケタの生まれで、2009年に75歳で没している。
東京神田の紋章上絵師の家に生まれて、家業を継ぎながら作家活動をしてきた。また奇術に造詣が深く、作品にもよく登場する。ミステリー小説界では、一目置かれる存在だった。しかし、彼の作品の多くは誰にも真似できないような独特の技によって精緻に組み立てられている。
小説の世界は、普通の街並みや人々が出てきて、ミステリー独特のおどろおどろしい世界ではない。ただ、どこかねじれたような奇妙な事件が起きていく。
深刻な話は少ないが、どこか人の心理を虚をついたようなところがあって、ドキリとさせられることもある。
また、氏の作品に登場する人は、みなどこか飄々としている。そして、何よりも肩に力の入ったところがない。ミステリー作家の中には、構想が大きくなるほど、どこか大上段になる人もいるが、あくまでも粋だ。小説の構成を考えて、読者を騙すことをどこか楽しんでるようで、それが登場人物の飄々とした雰囲気とどこか重なる。
絵師、奇術師、そして作家を多面的な才能を持った方だが、まさにプロの職人だ。
長篇にも傑作が多いが、「亜愛一郎シリーズ」の短篇集は軽い読み口だが、技は卓越している。3冊あるが、「狼狽」「転倒」そして「逃亡」と続いていく。
主人公の青年は、気弱で美男のカメラマン。彼の行くところで起きる、奇妙な事件を鮮やかに解決していくというシリーズだが、事件の背後にある動機づけなどが一筋縄ではわからない。
しかも、短編の中に見事に配された伏線が、キレイに回収されてピタリとおさまる。トリッキーで、だまし絵を見せられているようだが、トリックに執着しているわけではない。
小柄な年寄りの武道家が、一瞬にして相手をひっくり返してしまような感じだろうか。
その上、泡坂妻夫は1900年に「蔭桔梗」で直木賞を受賞している。これは、いわゆるミステリーではなく、職人とその世界を描いた連作集だ。
同時代の作家には、結構悔しい思いをした人もいたのではないだろうか。
読み返して思ったのだが、「亜愛一郎シリーズ」は、謎解きはもちろん、全体に漂う長閑な昭和の空気感がいい。登場人物のやりとりや状況設定などが、「ちょっと昔」の感じだが、どこかゆとりがある。
40代以上の人なら、そんな懐かしさを感じながら読むのも、結構な愉しみだろう。寝る前に一篇ずつ読んだりすると、毎日極上の和菓子を大切に食べているような感覚になり、読み終わるのが惜しくなってしまう。
なお電子書籍にもなっており、この価格設定は結構良心的だ。「昭和の謎解きをチビチビ味わう」ならば、最高のシリーズだと思う。