消費増税の「先送り」が決まった。
経済政策的には賛否があるようだが、僕が気になるのは「先送り」という発想である。
個人的には、この言葉を聞くと「嫌な感じ」がする。それは、性格とか職業によっても異なるかもしれない。
僕の知ってる限り、フリーランスや起業家で「先送り」を好む人はいない。つまり、面倒なこと、難しいことは先に片づける。そうしないと、肝心のこと、つまり自分にとって大切なことができないからだ。
人の助けを借りることができない以上、すべてのことの優先順位を自分で決める。先送り、というのは、常にアタマの中に「余計なコブ」が付着しているような感じがする。「目の上のタンコブ」というが、あれがアタマの中にできている感じだ。
そういうこともあってか、メールに対するリアクションの時間は組織の大きさに比例しているように感じる。
とはいえ、会社員の時は先送りをすることもあった。ただし、それは組織で決めていた。そのうち、「ペンディング」などと横文字を使うようになって、そうするとちょっとは合理的な意思決定にも見える。
もちろん、それは違う。先送りとは、往々にして「見てみぬふり」なのだ。
じゃあ、どうして組織では先送りができるのだろう。それは、例の「余計なコブ」をみんなで分け合っているからだと思う。1人で心配するより、10人で心配している時の方が気が楽だ。
経営破たんした大企業の社員の人でも、結構直前まで「ウチの会社どうなるんでしょうね~」と他人事のように言っている。というか破たんした後も、結構落ち着いてる。そういう光景をいろいろ見てきて不思議に思ったが、自分も大組織にいればそうかもしれない。
先送りをしない人がフリーになったり起業するのか、それともそういう環境なので先送りをしなくなるのか。その因果関係はわからない。
一方で、先送りを嫌って行動する人を組織人から見れば、単に慌ただしいだけかもしれないし、ピリピリして見えるだろう。
同じように、先送り賛成派から見れば、反対派は「理屈っぽくて小賢しい」だけに見えるかもしれない。そりゃ、選挙戦術としては先送りだろう。調査では先送り賛成派が2/3から8割くらいである。
ただ、破たんした企業の例でもわかるように「先送りして後で考えればどうにかなるだろう」というのは、共同体の幻想だと思う。それは企業ならば、脱出の一手だが、国となるとそうはいかない。
経済政策以前の問題として、「先送り」という言葉をネガティブに感じるのは、今の日本では少数派なんだろう。なぜなら、いろんな場面で「先送り」をして、心配を分かちあっても大丈夫な組織人や、あまり長期展望を考えない高齢者が多数派だから。
そして、主な野党も先送りを主張している。いっそのこと「先送り大連立政権」でもつくって、幕末の「ええじゃないか」みたいになったら意外に景気良くなったりして。