熊本地震以降、しばらくの間facebookを見る機会が相当減った。
地震とそれを巡る様々な情報や意見が飛び交い、そのソースの真偽が怪しかったり、主張される話が非論理的だったりすることも多くて疲れたのが理由だった。
いまに始まった話ではないけれど、facebookは若年層ユーザーが少ないと言われている。最近の記事でも、年代別ユーザーの数が明記されていないためにそんな憶測を生んだ。僕の周りでは、学生からリタイアした層まで多くの方が「ともだち」になっているけれど、若年層の投稿はそもそも少ない。大学で毎年行っているアンケートでも同様で、ほとんどの人がIDを持っているものの、週に一度覗いてみる程度という層が圧倒的に多い。
仲間内でLINE、有名人をフォローするのはtwitter、写真を撮ったらinstgramというのがフツーの流れだと思う。
今回の地震など、社会的に大きな事件が起きるたびに感じるのは、facebookが「政治化しているな」ということだ。
ここでいう「政治」とは、2つの意味がある。
1つは、いわゆる「永田町」や「霞が関」でおこなわれ、時にはワシントンや北京などが関わってくる「政府などがおこなう」政治だ。
もう1つは、より広い意味で使われ「権力配分をめぐる人間の営み」に関わることで、それは日常的にもおこなわれる。いわば「政治的」といわれることになる行動だ。
そして、どちらの意味にしても若い人は政治との縁が薄い。
まず、選挙の投票率を見ればわかるように、年齢が上がるほど政治への関心がま高まる。高齢者ほど公的支出などへの依存が高まり、それを決めるのが政治であることを知っているからだろう。
また、「権力配分」をめぐる経験も若い人は少ない。社会に出てしばらく経ってから「お察しください」と言われて、そこには何らかの意思があり、世の中が動かされてることを知るのだ。
熊本地震の後のタイムラインは、二重の意味で政治的だった。
まず、政府を初めとする公的機関のあり方についての議論がいろいろとあった。
また、「自粛」など、人の行動をめぐっての「べき論」が湧いてきた。状況を共有して心配しあってる間はともかく、「どうするべき」となれば、それはもう十分に「政治的」な話である。
個人的には、そういう状況に疲れたのと同時に、若い人がfacebookを使わない心理もまあわかかるなぁとしみじみ感じた。今回に限らず、選挙や重要な政策決定、あるいは大事件のたびにfacebookを覗く頻度は減っている。
これは日本だけではなく、米国大統領選などでもfacebookは文字通り政治的に機能しているようだが、「ニュースをシェアして語る」という「テキストの文化」であるかぎり避けられないだろう。
いっぽうで、そうした「言葉の交換」のスキルとマナーに不慣れな若年層は、直感的に使えるメディアに行くのは当然だろう。
この辺りは、「どんなデバイスでネットに接したか」という経験とも密接にかかわるのでこれからの重要なテーマになると思っている。