冨田勲が感じさせてくれた、未来。
(2016年5月9日)

カテゴリ:世の中いろいろ,見聞きした
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冨田勲氏が逝去された。

多くのメディアの見出しに「シンセサイザー」という言葉が一緒に並んでいる。もちろん、シンセサイザー奏者としても有名であるが、作曲家であり、映画やテレビを中心にたくさんの作品を残した。

とはいえ個人的な記憶は「シンセサイザー」という未知の世界を拓いた人、というイメージが強い。ちょうど中学生の頃にアルバムが発表されて、幾度となく聴いていた記憶がある。

後になって、「新日本紀行」などのタイトルバックに名前を見つけて「あ、そういう人だったんだ」と思った記憶がある。失礼な気もするのだが、そのくらい「シンセサイザーの冨田勲」だったのだ。

今にして思うと、氏のシンセサイザーのアルバムは絶妙なポジションを突いていた。サウンドは斬新で、録音ならではのさまざまなテクニックが駆使されている一方で、その素材はおもにクラシックに求めている。

ホルストの「惑星」ムソルグスキーの「展覧会の絵」、あるいはドビュッシーの「月の光」などだが、いわゆる典型的で硬派なクラシックではない。誰もが口ずさめて、色彩感が強く、表題性の高い曲を選んでいる。

だから冨田勲のアルバムを聴いた人が、どのような音楽を聴いていったかというのも結構さまざまだろう。シンセサイザーの魅力に取りつかれた人もいれば、アルバムをきっかけにクラシック音楽を聴き始めた人もいるだろう。

強烈なインパクトで、実に広範な影響を及ぼしたと思うが、単なる「音楽アルバム」を超えた存在だったと思っている。

冨田勲のアルバムは、単なる編曲ではなかった。それは当時の聴き手にとっては共有されるべき「未来」のイメージだった。そして、それは地球の外へと広がっていた。当時の中高生にとっては、十分「妄想に値する未来」が感じられたのだ。

1969年のアポロにより月面着陸を経て、1970年代は、宇宙をめぐるフィクションが次々にポピュラーになっていく。ランダムに挙げていっても「宇宙戦艦ヤマト」「スターウォーズ」「未知との遭遇」「ガンダム」などが出てきた時代だ。

世界観が異なるし、必ずしも楽観的なストーリーとは限らない。経済的にオイルショックの後の転換点で、そういう時代に宇宙的な未来がさまざまなカテゴリーで開花した。

いま聴きなおして感じるのは、実は相当にアナログ的で人間味のある音作りだなぁということだろうか。口笛や弦のピッツカートなどを模したサウンドが響き、ハーモニーのバランスも丁寧だ。シンセサイザーは表現の手段であり、主役はあくまでも音楽だ。

星新一の小説、真鍋博のイラスト、そして冨田勲のシンセサイザー。あの頃の未来は、どこか「ピコピコ」していたような気がする。

でも、冨田勲がシンセサイザーで表現しようとしていたのは、いつになっても変わらない音楽の美しさだということが、今になるとよくわかる。一連のアルバムに触れたのは、それから何十年経った今でも、自分が音楽を楽しむ生活を送っている大きな要因になっている。

感謝しつつ、ご冥福を祈る。