マックス・ウェーバー 著 中山元(訳) 『職業としての政治』 日経BP社
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100年前の分析や批評が、いまでも通用する分野ってどのくらいあるのだろうか。
スポーツはまず無理だろうし、経済学も困難だろう。自然科学に至っては、話の前提が全く違っている。相対性理論は発表されていたが、重力波はもちろん、DNAも知られてない時代である。
ところが、政治をめぐる議論というのはちょっと趣が異なる。以前書いたマキャベリの『君主論』はいま読んでも頷くところが多いし、孔子や老子、あるいは古代ギリシャの議論も未だに通用する。
権力のあり方を巡るテーマの本質には普遍性が色濃い。恋愛を巡る心情もそうだが、両者ともある意味科学では説明しきれない側面がある。まあ、結局人がもっとも学べていない分野なのだろう。
この本は、1919年におこなわれた講演、つまり第一次大戦後の時代のものだ。政治家のあり方をめぐる課題は、現代においても十分に通用する。
日本はもちろん、混迷する欧州や大統領選で揺れる米国を重ねあわせて読むことができるし、ウェーバーが本質を見抜いていたことに驚く。
昨夏に、『プロテスタンティズムと資本主義の精神』について書いた時、想像以上の反響があったのだが、それだけ読みごたえがありつつ、洞察力に満ちた思想家であることを再認識した。
政治家に必要な資質を、「情熱・責任感・判断力」とキレよく述べつつ、その情熱は「不毛な興奮」ではないと釘を刺す。
一方で二種類の大罪があり、それは「仕事に献身しない姿勢」と「無責任さ」であり、虚栄への欲望のためにこの罪を犯す誘惑に駆られると述べる。
いわば、「100年コピペ」とでもいうべき、政治家のあるべき姿への洞察が語られているのだ。
つまり、大概の政治批評、特に政治家の姿勢を糾弾するような論評はすべて似たような自己満足に見えるのも無理はない。100年前に、シンプルに言い切られているから。もちろん、議論はさらに深くなり、倫理を巡る考察はとても深く、政治家だけでなくあらゆる人々への問いかけでもある。
ただ、今回改めて気になったのは、ジャーナリズムについての評価だ。
「ほんとうに優れたジャーナリズムの仕事には、学者の仕事と同程度の『精神』が必要とされる」とその意義を認め、その責任感は学者の責任感以上に強いものもある、という。
ただ、それが忘れられているのは「無責任なジャーナリストの仕事がしばしば恐ろしい結果をもたらした」ことが原因であると続けていく。
政治家が、「あるべき姿」を保つためことは、政治家の資質だけでは成立しない。政治にかかわるすべての人々、そして民主主義社会においては国民の理性がすべてを決していく。
そして、「10年後にまた、この問題について話し合いたい」と学生に向かって述べつつ、その10年後は「残念ながらさまざまな理由から、反動の時代が既に始まっているという予感がします」と語っている。
その後のドイツ、そして世界の変化を思い起こすと、意味深い言葉だ。
政治家が読むべきなのはもちろんだろうが、政治を評する人もまた読むべき本なのだろう。憲法記念日の各社の世論調査を眺めて議論するよりも、この本のずっしりとした幹を読み込んだ方がいいかもしれない。
今の政治を巡る議論は、あまりにも枝葉に集中しているのではないだろうか。
なお今回は「プロ倫」と同じく、中山元氏の新訳で再読した。既に文庫化されている旧訳より価格は高いが、『職業としての学問』も所収されており、なにより日本語としてよく練られている。
書評などでは旧訳を「格調高い」と評し、新訳の細部に文句を言う人もいるようだが、そういう議論をしたいのなら原著に当たればいいだろう。近年は西洋古典の新訳が多いが、普通に読むなら基本的には新しいものがいいと思っている。
翻訳の前提となる知識の集約は、昔より遥かに進んでいるからだ。