2016年05月アーカイブ

416jhPvryML最近はいろんな会社で、経営者をめぐる騒動が目立つ。昨日はベネッセのニュースが目立ったけれども、セコムの会長社長解任というのも驚いた。もっとも驚いたのはセブン&アイを巡る一件だったけれど、経営者を決定するシステムが変化していく過渡期にある中で、今後もこうしたことは起きていくのだろう。

『社長解任 権力抗争の内幕』という本が出ていて、これはさまざまな会社の経営実権をめぐるドキュメントだ。2月の出版で、東芝の騒動が最後に描かれるが、多くは昭和のケースである。住友銀行、関電、新日鐵あるいはフジサンケイグループなども取り上げられる。さまざまなトラブルのあとで、立ち直った企業もあれば、どこか引きずっている企業もあるのだろう。

それにしても「今とは時代が違うよな」と感じる点もあった。

1つは労働組合の存在感だ。いまとは比較にならないほどに大きい。ここまで経営に介入していたのかと改めて思う。

もう1つは、いわゆる「裏社会」とのかかわりだ。現在においてどうなっているかは何とも言えないが、想像以上に露骨な時代もあったのだと感じる。 >> 男の嫉妬が会社を揺らす。『嫉妬の世界史』の続きを読む



以前勤めていた会社の後輩にあたる、斎藤迅さんから「一瞬でやる気を引き出す38のスイッチソング」 を恵送頂いた。

カテゴリーを超えて様々な曲がリストにあって、それは音楽が人々を励ましてきた歴史の縮図のようだ。

その中で「ふるさと」についても書かれていた。本書には数少ない日本の曲だが、この詩にはちょっとした仕掛けがあり、そのことを僕は高校の先輩から聞いた。高野辰之 による有名な歌詞は次の通りだ。

 

兎追いし かの山

小鮒釣りし かの川

夢は今も めぐりて、

忘れがたき 故郷

 

如何に在ます 父母

恙なしや 友がき

雨に風に つけても

思い出ずる 故郷

 

志を はたして

いつの日にか 帰らん

山は青き 故郷

水は清き 故郷

 

よくある話だとは思うが、子供の頃は「うさぎ美味しい」だと思ってた。昔の田舎ならそんなものだろう、と思ってたのだ。もちろん「ジビエ」など知るわけもない。 >> 「ふるさと」が誰にとっても名曲である理由。の続きを読む



(2016年5月10日)

カテゴリ:メディアとか
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熊本地震以降、しばらくの間facebookを見る機会が相当減った。

地震とそれを巡る様々な情報や意見が飛び交い、そのソースの真偽が怪しかったり、主張される話が非論理的だったりすることも多くて疲れたのが理由だった。

いまに始まった話ではないけれど、facebookは若年層ユーザーが少ないと言われている。最近の記事でも、年代別ユーザーの数が明記されていないためにそんな憶測を生んだ。僕の周りでは、学生からリタイアした層まで多くの方が「ともだち」になっているけれど、若年層の投稿はそもそも少ない。大学で毎年行っているアンケートでも同様で、ほとんどの人がIDを持っているものの、週に一度覗いてみる程度という層が圧倒的に多い。

仲間内でLINE、有名人をフォローするのはtwitter、写真を撮ったらinstgramというのがフツーの流れだと思う。

今回の地震など、社会的に大きな事件が起きるたびに感じるのは、facebookが「政治化しているな」ということだ。

ここでいう「政治」とは、2つの意味がある。 >> 「政治化」するfacebookと若者。の続きを読む



冨田勲氏が逝去された。

多くのメディアの見出しに「シンセサイザー」という言葉が一緒に並んでいる。もちろん、シンセサイザー奏者としても有名であるが、作曲家であり、映画やテレビを中心にたくさんの作品を残した。

とはいえ個人的な記憶は「シンセサイザー」という未知の世界を拓いた人、というイメージが強い。ちょうど中学生の頃にアルバムが発表されて、幾度となく聴いていた記憶がある。

後になって、「新日本紀行」などのタイトルバックに名前を見つけて「あ、そういう人だったんだ」と思った記憶がある。失礼な気もするのだが、そのくらい「シンセサイザーの冨田勲」だったのだ。

今にして思うと、氏のシンセサイザーのアルバムは絶妙なポジションを突いていた。サウンドは斬新で、録音ならではのさまざまなテクニックが駆使されている一方で、その素材はおもにクラシックに求めている。

ホルストの「惑星」ムソルグスキーの「展覧会の絵」、あるいはドビュッシーの「月の光」などだが、いわゆる典型的で硬派なクラシックではない。誰もが口ずさめて、色彩感が強く、表題性の高い曲を選んでいる。

だから冨田勲のアルバムを聴いた人が、どのような音楽を聴いていったかというのも結構さまざまだろう。シンセサイザーの魅力に取りつかれた人もいれば、アルバムをきっかけにクラシック音楽を聴き始めた人もいるだろう。

強烈なインパクトで、実に広範な影響を及ぼしたと思うが、単なる「音楽アルバム」を超えた存在だったと思っている。

冨田勲のアルバムは、単なる編曲ではなかった。それは当時の聴き手にとっては共有されるべき「未来」のイメージだった。そして、それは地球の外へと広がっていた。当時の中高生にとっては、十分「妄想に値する未来」が感じられたのだ。 >> 冨田勲が感じさせてくれた、未来。の続きを読む



61VHYp26DAL夏が近づいてくるといつも思うのだけれど、この季節にあうクラシック音楽は少ないんじゃないだろうか。

欧州にも夏はある。ただ、クラシック音楽は内向的で抽象的なものが多いし、室内的な感じがする。ことにドイツ系は冬っぽい。それでも、海よりは山の方がまだいいだろうか。ただし、夏の開放的な気分に合う曲は、どうも思いつかない。

ロッシーニやメンデルスゾーンの序曲集や、ヴィヴァルディのギター協奏曲、あるいはアルベニスのピアノ、とかどんどんとマニアックになっていく。

そんな中で、夏の夕べにはまる作曲家だなあと思うのが、ディーリアスだ。

1862年生まれで、マーラーの2年後、シベリウスの3年前ということになる音楽史を振り返って、こうやって並べてみると、「なるほどなぁ」と思う気持ちと、「なんか意外だなぁ」と感じる気分が奇妙に同居することが多い。

たとえばベルリオーズの「幻想交響曲」の初演(1830年)が、ベートーヴェンの「第九」の6年後というのは意外な感じもする。一方でヘンデルとバッハの生年が同じ(1685年)のはわかりやすい。

ディーリアスのメロディは、優しく幻想的だ。ただし、すぐに口ずさめるようなわかりやすいメロディーとは言えない。ハーモニーに独特のうつろいがあって、何度も聴いてるうちに、ジンワリと沁みてくるような音楽だ。 >> ディーリアス~夏の夕暮れに聞くクラシック。の続きを読む