2016年04月アーカイブ

土曜日の午後、右手の親指の傷を気にしながらテレビを見ていた。

木曜の夕食を作る時にスライサーで切ってしまい、痛みは薄らいだのだがムズムズとした違和感がある。

そして、テレビでは九州の被災地のようすを朝から報じている。いわゆる「本震」が想像以上の被害をもたらしている状況が次々に映し出されていた。

困窮もあれば、心理的不安もあり、もちろん肉体的痛みもあるだろう。しかし、画面の向こうで起きているすべての混沌を合わせても、自分の指先のごく僅かなムズムズした痛みの方に明らかなリアリティがある。

そのどうしようもない距離感のようなものが、妙な不安感を増幅させる。(大変だろうな)と思うほど、自分の指先が妙な主張をする。(痛みはここにしかない)と、自分の指が言っているように感じてくるのだ。

大災害が起きるたびに、僕はこの奇妙な距離感と向き合うことになる。

テレビを見ることを止めて、いつも寄附をしているNPO団体のウェブサイトから手続きをする。早急に動く体制をもっているので、即効性が強い。既に物資を届けたことも、今日のウェブサイトで確認できた。 >> 災害の後、「頑張ろう」に乗れなくてもいいと思う。の続きを読む



polマウリツィオ・ポリーニ ピアノ・リサイタル

2016年4月16日 19:00 サントリーホール

シェーンベルク:6つのピアノの小品 op.19

シューマン:アレグロ ロ短調 op.8/幻想曲 ハ長調 op.17

ショパン :舟歌 嬰ヘ長調 op.60/2つのノクターン op.55/子守歌 op.57 /ポロネ

ーズ第6番 変イ長調 op.53 「英雄」

【以下アンコール】

ショパン:エチュード op.10-12 「革命」/スケルツォ 第3番嬰ハ短調 op.39/ノクタ

-ン 変ニ長調 op.27-2

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会場に着くと案内が配られており、曲目の変更があるという。川崎でシューマンをキャンセルしてドビュッシーにしたというので一瞬ドキリとしたが、ブーレーズの追悼としてシェーンベルクを演奏するということだった。

19時を過ぎる。ポリーニはなかなか出て来なかったりすることもあり緊張が高まるが、5分ほどで登場してシェーンベルクから。

一貫した印象だけれど、ピアノの音が柔和に感じられる。調律を含めた音作りの志向かもしれないが、「彫像のような」と評されたイメージとは異なる。もっともそうした言葉の選び方自体、批評としては安易だったのだろうと今になっては思う。

もっとも楽しみにしていたシューマンだったが、川崎での変更もややわかる気がした。どこか緊張が残っていて、硬い。これだけのキャリアでも、そうした緊張感が持続していることも驚異だが、2楽章までは聴きながらもどこかしっくりこない感じもあった。

ところがフィナーレになって、紡ぎだされた響きの美しさは優しく濃やかだった。行ったこともないのに「天国的」という表現をする人がいるけれど、その気持ちもわからなくはない。

休憩でロビーに出ると、若い女性客同士が「疲れたぁ」と話していた。たしかにポリーニのリサイタルは客も緊張するところがある。 >> 孤高だが孤独でない。幸福なポリーニの夜の続きを読む



昨日のつづき。

「CMを科学する」で紹介されている最新のテクノロジーを組み合わせることは、マーケティングや広告の世界に大きな影響を及ぼしていくと思う。その流れについて簡単にまとめておこう。

まず広告主企業だが、宣伝担当はもちろん経営レベルでも再度CMのあり方を見直す機会になるかもしれない。広告費は企業の利益水準によって上下する。近年だとリーマンショックの後の減少は相当厳しかったが、それ以降は東日本大震災と除くと、それほど強い逆風もなかった。

しかし、景気には波があり、次の下り坂において「単純な出稿減」にするのか、「戦略的プランニングへの転換」にするのかで、その企業の明暗が分かれると思う。

あらゆる経費が費用対効果を問われる中で、「専門家」に任されていたのがこの分野だ。ただし、その専門家が最新のノウハウを駆使できないとなれば、どうなるだろうか。

効果のないマーケティングコストをかけているとすれば、それは経営の責任だし、株主から見ても問題だろう。そういう意味で、宣伝担当にはとどまらない話だと思う。 >> 広告ビジネスの「器量」が問われる。『CMを科学する』の続きを読む



511gbwlh-TL「科学する」というのは、結構昔からある言い回しだが、いったいどんな本が他にあるのかと思ってamazonで検索してみた。一番最初に出てくるのは本書だが、次にあったのが『科学する麻雀』だった。

他にも、いろいろ出ているが共通点がある。それは「勘や経験あるいは言い伝え」に頼っている分野ということだ。

CMについては、科学的分析もおこなわれている。ただし、いま敢えてこのようなタイトルの本が出ることには大切な意味がある。なぜならCMを取り巻く科学は相当に進歩している一方で、多くの人はその最先端を知らないままにビジネスが進んでいるからだ。

この本に書かれている科学の対象は大きく2つある。

1つは「どのような人に到達しているか」という、メディアプランニングに結びつけるための数量的分析だ。

そして、もう1つは「どのように心を動かしたか」という、クリエイティブの課題、つまりメッセージ開発につなげるための合理的アプローチとなる。

メディアとメッセージ。広告の効果は、その相乗効果にある。多量に出稿しても、クリエイティブによって「残り方」が異なることは以前からわかっている。

一方で、どんな印象的なクリエイティブでも出稿量が少なければ、効果は限定的だ。

メディアとメッセージ。これは広告の両輪であり、広告代理店がビジネスとして成立する理由は、この2つの分野の専門的スキルを持つ人材を擁して、かつ組織としてデータを保有分析してきたことにある。 >> 『CMを科学する』テレビCMの新約聖書は想像以上のインパクト。の続きを読む



東京大学の入学式の総長式辞で「新聞を読もう」と言ったというニュースを見て、ウェブサイトに掲載された式辞を見た。なんか唐突な感じもしたのだが、読んでみると必ずしもそういうわけでもないように感じた。以下””内は引用。

  • まず、この式辞では「新聞を読もう」とは言ってない。“ところで、皆さんは毎日、新聞を読みますか? 新聞よりもインターネットやテレビでニュースに触れることが多いのではないでしょうか。”と問いかけている
  • そして、“ヘッドラインだけでなく、記事の本文もきちんと読む習慣を身に着けるべきです。”と言い、“東京大学ではオンラインで新聞記事や学術情報を検索し閲覧できるサービスを学生の皆さんに提供しています。”と続ける。
  • 新聞を読もう、というよりもニュースの表面をなぞるのではなく、その背景などについてきちんと読み込むということだろう。ネットでも記事が配信されているが、その内容をちゃんと読んでいない人は社会人でも多い。
  • 僕もネットニュース、特にアプリの問題は学生に指摘している。自分の関心が高いもの配信されるような設定だと「情報偏食」が起きる。このことについては、昨年あたりから学生も理解して、特に就活前くらいから気にするようになってきた。
  • ただし新聞はカネがかかる。殊に学生への仕送りが減少を続ける中では、相当大変だし、以前から一人暮らしの学生は新聞をとっている人は少なかった。図書館など大学の施設を利用することを薦める先生は多いし、総長もその辺を意識しているのかもしれない。
  • そして、この式辞はさらにこう続く。“皆さんにさらにおすすめしたいことがあります。それは、海外メディアの報道にも目を通すことです。日本のメディアの報道との違いに注目してみてください。”
  • こうなると、日本で新聞を読む価値はなんなんだろうか?という話になる。紙の新聞をとるよりも、大学のオンラインを最大活用することを薦めているような感じだ。だったら「新聞だけでは何もわからない」と言った方がいいようにも思う。
  • ちなみに、今朝のNHK・BS-1の世界のニュースでは、中国農村の「留守児童」の実態をレポートしていたが、これが英国BBCからの配信。隣国のルポがロンドン経由でニュースになって見ることができる。
  • 一方で日本で報じられる中国人の話は「爆買い」についてのトピックが目立ち、あるいは南沙諸島における軍備関連の話が多い。あるいは経済動向など。たしかに日本のメディアだけを見ていれば、それが新聞でも十分に危うい。
  • 大学でも、学生の情報接触についての危機感が強まっていることは近年の学長式辞でも感じられる。信州大学の山沢清人氏は昨年の入学式で「スマホ漬け」に警告したし、東大教養学部の卒業式の石井洋二郎氏の式辞も「情報の真偽」について語った傑作だったと思う。
  • それに比べると、入学式と卒業式の対象者の違いはあるとはいえ、この東大入学式の式辞は、キレがないし「新聞読もう」と報じられても仕方ないのかなと。京大入学式の式辞も迫力があったし、こうしてネットで全文掲載になると学長の人となりが見えてくる気もする。