「溜飲を下げたい人」とメディアのダメな関係。
(2016年3月23日)

カテゴリ:メディアとか

今年は、年明けから国内のスキャンダル報道が多い。というか、元を辿ると週刊文春が爆走しているということなのかもしれないが。

まあ、第一報のニュースが見るけれど、その先の報道、というか情報番組などは見ない。逮捕で騒ぐのはわかるが、保釈でヘリを飛ばしたり病院に張り付くのは何なんだ。あと、「謝罪」をわざわざ見たりするのも避けている。

なんか、ゴルゴダの丘の群衆に加わるような感覚になるのだ。処刑される人が誰であろうが、構造は似ている。そして、3日後とは言わないが復活する人もいるわけで。あ、そういえば次の日曜はイースターか。

それでも、メディアはしつこく追っていく。特にテレビはあちこちでやるので、それを避けると見る番組がなくなるような時間帯もあって、スイッチを切ることになる。

でも、それは需要があるからなのだろう。みんなが見なくなれば、テレビも変わるかもしれない。

で、その需要っていうのは「溜飲を下げたい」人が生み出していると思う。

「なんだよ、結局不倫じゃ、CMゼロでもしょうがねえだろ」

「事務所独立するって、難しいに決まってんだろ、何年芸能界いるんだよ」

「あんだけ詐称して、よく偉そうなこと言ってたよな」

ちなみに「溜飲」というのは、「不消化のため飲食物が胃にたまって出てくるすっぱい液」ということだ。それが下がるというわけなのだから、「なんかムカムカして不快な状況にある人」が、「溜飲を下げる」番組のターゲットということになる。

そりゃ、毎日暮していればイラつくこともあるし、世の中には腹の立つことも多いだろうけど、メディアがそうした状況を増幅させている面もある。

中身がないのに偉そうなコメンテーターを増殖させたのもメディアなら、それを叩くのもメディア。番長とおだてたのも、育休を煽ったのも、同じ構造だ。

そして、「溜飲を下げたい人」を見つけ出して番組をつくる能力は高い。

「ニッポンすごい」系もそうだけど、いままで散々「失われた○○年」や「新興国の勃興」とか大袈裟にやってきたから、溜飲を下げるにはいいタイミングなのである。それって、力道山は外国人レスラーを倒していた時代とおんなじではないか。

あの頃にも、溜飲のたまっていた人はいたのである。

そう考えると、今の時代にテレビの熱心な視聴者は、「何となくムカついている人」であり

、テレビにとっては彼らのニーズに応えることが大切なのだろう。

ただし、こういう人は、あまり前向きに生きているとは思えないわけで、ちゃんとした人なら自分で状況変えようと頑張るとも思うのだ。だから、広告を流してもいま一つ効果がピンと来ない。ああ、だからゲームの広告が溢れるのか。あれに大量のおカネ突っ込んじゃう人も、どこか溜飲がたまっているように感じる。

ムカついてる人を相手に正義を振りかざしているうちに、そのメディアはダメな人の吹き溜まりになっていくだろう。他人の没落で溜飲を下げる。そうやって、メディアと受け手はジワジワと沈んでいるのかもしれない。