震災の日に卒業祝い給食は非常識、という教師の方が不見識だと思う。
(2016年3月10日)

カテゴリ:世の中いろいろ

埼玉のとある市の中学校では、毎年3月に「卒業祝い献立」をおこなっていたが、今年はスケジュールの関係で3月11日になったそうな。そうしたら、『教職員から「震災のあった日にお祝いなんて非常識」という声が一部で上がっている。』というニュースになっていた。

埼玉新聞のニュースだったのだけど、こういう話を聞くたびに「追悼」という行為の二面性を感じる。個人の内面における思惟と、社会儀礼としての二面性だ。

別に大災害ではなくても、そのように感じることはあるのではないか。それは、宗教的な営みにもついて回ることだ。

祈る時は1人のこともあれば、複数のこともある。ただし、何万人が一斉に祈ろうが、人が何を祈るかは、その人にしかわからない。だから、祈りの間は、沈黙となる。そう考えると、祈りとは孤独な営みであって、本質的には個人的な行為のように思える。

しかし、人は弔いを社会の行為としておこなったきた。文化人類学の専門書を紐解くまでもなく、それを感じることはできるだろう。葬儀は、集団によっておこなわれる。それが極大化したのが、国葬を頂点とする権力者の葬儀だ。もちろん、民間でもある。ただし、長寿の人が増えて現役のまま没することは減ってきたこともあり、社葬というのもあまり聞かない。

「親族のみにて」というケースは増えており、いまの日本では、弔いという行為はまた内面へと向かっているのかもしれない。しかし、それでもセレモニーには一定の意味がある。先日、会社員時代の先輩が他界して、一か月強を経ておこなわれた「お別れの会」に行ってきた。1人で献花しただけだが、行ってよかった。

それは、残された者たちの定常的な暮らしを維持するための手段なのかもしれない。それでも、1人で祈りを捧げるだけでは、旅立った者たちの思いを「引き受けきれない」感じがする。

3月11日が近づき、いったい自分はどうすればいいのか。真剣に考えるほど、結論は出ない。逝かれた人々への追悼だけではなく、今も苦しんでいる人に対して何ができるのか。少なくとも、今をきちんと生きて行くことで、社会に対して関わりを持ち続けること。それが、起点になるのではないか。そういうことを「考える」日であって、思考を止める日ではないのだ。

そう考えると、埼玉の市の「一部の教職員」は、何も考えていないんだなぁ、と改めて思う。

「卒業おめでとう。今日という日だからこそ、震災のことに思いを馳せて、またこうやって給食をいただけることに感謝しつつ、自分たちが将来できることを考えましょう」

そのくらいのことを、生徒に話せばいいことではないか。3月11日にそうした給食を頂くことも、意味があるしむしろいいことだと思う。

まあ、一部の教職員のようだから、多くの教師はそう思ってないのかもしれない。ただ、こうした拍子に、教育現場の「ダメな感じ」がジワリとにじんでくるのは残念だ。

追悼は思考停止することではない。ただし、一番何も考えていないのが「一部の教師」なのだろう。