2016年03月アーカイブ

819AmRUsh6L._SL1500_チャイコフスキーの交響曲は、初めの3曲と、後の3曲でガラリと変わる。1番から完成度の高い、ブラームスやマーラーと異なり「化けた」感じがするが、3曲の個性は全く異なるのが面白い。

ただ、僕がコンサートで聴きたいのは圧倒的に4番だ。

6番の「悲愴」は音楽史に残る名曲だと思うが、しんどい。海外のオケは結構演奏することが多いのだが、躊躇してしまう。一方で、日本のオケだと「名曲コンサート」のようなプログラムに収まることが多く、これはこれでどうも食指が動かない。

5番は、学生のオケとの相性は最高だと思う。フィナーレのコーダに入る辺りは、それまでの想いが迸るようでようで、独特の盛り上がりをみせる演奏を聴くことも多い。ただ、プロが演奏すると意外にスルスルと終わってしまう。海外のオケなどフィナーレの金管も軽々と吹くが、アマオケだとそこが懸命になるので妙な高揚感が出るのだろう。

というわけで、4番だが、これはこれで曲者だ。1楽章はトリッキーなリズムで随所に罠がある。プロでもガタガタになることがあって、大昔N響が破滅的な状態になったことがある。

その演奏はオンエアされたために、学生時代に半ば伝説のようになっていた。トランペット奏者がのちにインタビューで語っていたことがあるが、ティンパニーと目配せして「エイや!」でファンファーレを吹いてどうにか収めたそうだ。ああ、あの辺かと見当がつくかもしれない。

4番は1楽章が妙に長い。そのために、バランスが悪いという人もいるが、それはディスクの演奏時間を眺めた上での話だと思う。実際に生で聞いて楽章バランスなどは気にならない。「一楽章偏重」の悲愴やピアノ協奏曲も同じことだろう。

この交響曲の魅力は「絶妙に破綻」しているように聞こえるところだと思う。5番は形式的にはまとまり過ぎるくらいまとまっているし、6番は破綻それ自体を音楽にして恐ろしい完成度になっている。

それに比べると4番はきちんとしているようで、音楽がどこに流れているか分からず、崖沿いの道をハイスピードで走るようなスリルがある。そうやってワインディングを走ると、妙な亡霊がフワリと現れる。

フィナーレなど、盛り上がって終わるのだが、それほどの「勝利感」も漂わない。手紙には冒頭の動機を「運命」と書いているが、そういう表題的な解釈なしに音のうねりを楽しむ曲のようにも思う。

ディスクは、カラヤンとムラヴィンスキーが昔から双璧のように言われている。これは好みもあるので、星をつけるような野暮はしないけれど、僕はカラヤンの60年代の録音が一番好きだ。その後の録音も聞いて思ったのだが、4番の場合この録音がムダにパワフルで直線的なのだ。

オケも指揮者も「すいません、よく考えてませんでした」という感じで一気呵成にフィナーレまで進むのだが、それで交響曲が成立しているのもまた驚きなのである。



51d1GOBPsnL小説のコミック化はいろいろとあるが、池波正太郎は結構多いのではないだろうか。

さいとう・たかをの作画によるコミックは見たことがある人も多いだろう。

昔ながらの中華料理屋で、漫画アクションなどと一緒に油がまみれているソフトカバーのイメージだろうか。あと、コンビニなどでも思いだしたように「傑作選」のようなものが売られている。

池波正太郎の作品は相当読んだが、コミックを買ったことはなかった。鬼平犯科帳もやはり、さいとうプロの作品なので、“あの人”のイメージが強い。ページをめくった途端に、悪党の眉間が撃ち抜かれているような気がして、どうも馴染めない。

そもそも、さいとうたかをの作画は西洋人を描くのに向いている気もする。人間の体が三次元で捉えられていて、どこかガッチリして、ミッチリとしている。

剣客商売もさいとうプロがコミック化しているが、そんな理由もあって何となく敬遠していた。ところが一昨月に訪れた奈良田の宿の本棚にあった「剣客商売」のコミックがなかなかいい。

作画は大島やすいちだが、画風は穏やかで違和感がない。というよりも、スッと世界に入っていける。調べてみると、さいとう・たかをは1998年から翌年にかけての連載で新刊5巻。大島やすいちは2008年からの連載で23巻まで出ている。どちらもリイド社だ。

この大島版は、困ったことにkindleでも読める。何が困るって、するする読めるのでズイズイとダウンロードして止まらない。じゃあ読めばいいのだろうけど、少しずつ読みたいので悩ましい。しかも、コミックで読み直していると、小説を再読したくなる。 >> 【本の話】江戸の空気感が漂う、コミック版「剣客商売」。の続きを読む



71eHQ9iq5ZL僕は本については、子どもの頃からいろいろ読んでたと思う。ただし、古典などにもいろいろ穴があるし、いわゆる乱読の方だろう。

そして、ある頃まで多読がいいと思っていた。今でも自宅の仕事場にオーダーメイドの本棚がありつつ、トランクルームを借りている。ただし、ここ何年か考えが変わってきた。どうやら、本をたくさん読んだからといって、それ自体に本当に価値があるのだろうか。

きっかけは佐々木中の『切りとれ、あの祈る手を』という本を読んだことだった。2010年秋の本だが、修善寺へ旅しながら読んだ。

「本は少なく読め。多く読むものではない」これは、多くの文人が言ってきたという。ただし、それがスッとわかるにはタイミングがあるように思う。僕は「そうだよな」と思ったのは、ちょうど40代半ばで単なる多読への疑問があったのだろう。

まず「繰り返して読みたい本」ってそんなにはない。ところが、繰り返して読む本には、よむたびに発見がある。「一度だけ読む本」がどんどん家の中に増えて、そこからはみ出していく中で、果たして「蔵書」に何の意味があるのか。それって、背表紙をズラリと並べることへの満足だけなんじゃないか。

一方で、僕は「聖書」一冊も満足に読んでない。これから頑張れば読むことは可能かもしれないが、そもそも聖書は「一通り読む」ものではない。その言葉から、何を読み取り考えるべきか、ということは千年の単位で議論されてきた。そして、今でも聖書一冊に一生を費やす聖職者の方がいる。 >> 本をたくさん読むのはいいことなのか?の続きを読む



大学生が本を読まないという話は、結構前から呪文のように言われている。

最近の調査では、1日の読書時間が「0分」という学生が過去最高になったという。こういうニュースは、調査の中で一番目立つところを抜き出すので、実態を知ろうとするなら元のデータを見たほうがいい。

全国大学生活協同組合連合会の第51回学生実態調査の概要報告(ああ、長い!)というこちらのサイトに行くとその内容がよくわかる。

このサイトの中に、過去10年ほどのグラフがある。そこで見ると、たしかに、「0分」という学生は史上最多で、45.2%になっている。それを見れば「最近の大学生は本を読まない」というように思うが、よく見るとそうとも言い切れない。ポイントは以下のようになる。

① 「30分以上60分未満」と答えた学生は23%で昨年より減っているが、10年で見ればほぼ横ばい。

② 「60分以上」という学生は20%で、これは10年前の25%からは漸減傾向

③ 「30分未満」という学生が2013年の18%から6%に急減

④ 「0分」という学生が2014年の40.5%から45.2%に増加

 

つまり、「30分以上」という学生の総和はあまり変わってない。「30分以下」というのは、1分でもOKなのだが、その層の学生が「0分」になったという感じだ。 >> 大学生は本を読まなくなった、は本当か?の続きを読む



pan2ヤマザキ春のパン祭りが始まっている。フランスでも有名で、皿を作る町が好景気に沸くとか、そもそもそんな話はないとか、まあそれはともかく、本当にどんな効果があるのだろうか。

ウィキペディアの「ヤマザキ春のパン祭り」はなかなかの力作で、それによればスタートは1981年だという。『ヤマザキにとって、春はパンの売り上げが伸びる時期であり、売り上げが伸びる時期に合わせてパンまつりを開催し始めた』とあるが、『ただし、今となってはパンまつりの効果で春に売り上げが伸びるのか、春なので売り上げが伸びるのかは不明である』と書かれている。(この辺りの記述はウィキペディア内に出典が記されている)

どうやらパン祭りは、高校生の頃から始まったのだが、なぜか個人的にはまったく縁がない。まあ、それはいいとして、本当にどのくらい売り上げが伸びるのかを調べてみた。

出典は総務省の家計調査だ。このデータは、よくテレビ番組でもネタになるが、その多くは都道府県別のデータのようで、「餃子日本一」とかその手のものは大体ここが出典だ。

で、この調査は結構いろいろ使い手があるのだが、今回は月次でパンの購入量を追ってみた。2015年も出ているのだが年報になっておらず、調べるのが面倒なので横着して、2013年と2014年でザックリ傾向を見てみたのがこのグラフだ。(数量で単位はグラム)

なんと、見事に3月にグイッ!と上がっている。

ちなみに、食パンと他のパンは数量ではほぼ同じで推移している。 >> パン祭りでパンはどれだけ売れるのか?の続きを読む