2016年03月アーカイブ
(2016年3月21日)

カテゴリ:読んでみた

81iic2agKkLそれにしても、歴史の本を紹介するのは想像以上にタフな仕事であることもわかってきた。

で、昨年に邦訳の出た本の話になるのだが、これらには共通点があって原著が結構古いのだ。その辺りの事情などを踏まえつつ、紹介しておこう。

まずは、その名もシンプルに『世界史』(楽工社)で、ウィリアム・マクニールと、ジョン・マクニール父子による著作だ。原著の出版は2003年なので86歳と49歳の親子の共作ということになる。

ウィリアムは「世界史」(中公文庫)が広く読まれているが、この本の原題は”The Human Web”で、つまり「人と人をつなぐシュシュの結びつき=ウェブ」という視点で世界史を読み解こうというものだ。副題の「人類の結びつきと相互作用の歴史」が表すとおりである。

この発想はシンプルだが、頼りになる手がかりで、理解はスムーズにすすむ。ただ、近年の世界史本を読んだ後だと、既視感があることもたしかだ。もっと、早く訳が出ていたら日本でも話題になったかもしれない。

また、シカゴ大学のポメランツによる『大分岐』(名古屋大学出版会)は2000年の出版だから、15年後の邦訳ということになる。副題に「中国、ヨーロッパ、そして近代世界経済の形成」とあるが、19世紀後半からの西欧の経済発展はどこから「分岐」が始まったのかという問題意識である。

昨日に紹介した『人類5万年 文明の興亡』を連想するが、こちらは2010年に書かれており(邦訳は2014年)、ポメランツへの言及もたびたびおこなわれている。

ただし、この『大分岐』は相当に手ごわい。本論は300頁あまりだが、補論が40頁ほど加わり、注釈と参考文献で100ページ近くある。 >> いま世界史の本がおもしろい③の続きを読む



(2016年3月20日)

カテゴリ:読んでみた

51xZgZQcMaLというわけで、「世界史の本」についての2日目だが、まずは『人類5万年 文明の興亡』(筑摩書房)から。イアン・モリスは英国生まれでスタンフォード大学の歴史学者。邦訳は2014年で、帯には、「銃・病原菌・鉄を超える」と謳われている。

で、帯裏にはその著者のダイヤモンドが推薦文を書いているのは「国家はなぜ衰退するのか」と同じだ。やはり、このカテゴリーは「銃・病原菌・鉄」のインパクトが強く、そうした読者をターゲットに芋づる式に狙っていこうという戦略なのだろう。

というか、僕は見事に引っかかっているんだけど。

これは「なぜ西洋が世界を支配しているのか」というサブタイトルがあるように、西洋と東洋の文明発展の比較に主眼がある。この本のユニークなところは「社会発展指数」という基準で評価をしていることだ。

それによると、古代から西洋がリードを広げるが7世紀には東洋が「逆転」し、大航海時代から産業革命を経て西洋が「逆転」して、未来に向かって東洋がさらに伸びていって…という見通しが語られる。

この指数は「エネルギー獲得量」「都市化」「情報技術」「戦争遂行力」の4つの特性から分析されるが、ここに異議を唱えるとすべての前提は変わってしまう。とはいえ、読者に代案が出せるわけでもなく、まずは読んでみれば早々の納得感はある。

分析フレームの勉強にはなるのだが、この本は上下で7000円を超える。この辺りが、いま一つ日本で話題にならなかった理由の1つかもしれない。 >> いま世界史の本がおもしろい②の続きを読む



(2016年3月19日)

カテゴリ:見聞きした
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51HrBdJzcOL今世紀に入った頃から、世界史の「仕組み」を俯瞰するような本がいろいろと出ているように思う。

その理由はいろいろと考えられるが、やはり冷戦の終結は大きいのではないだろうか。社会主義に一定以上の可能性を感じていた時代には、マルクス史観の影響力も大きかった。その呪縛が解けて、もう一度歴史のダイナミズムを研究して、かつ一般読者にもわかりやすく書いた本が、欧米発で生まれている。

一方で、そうした本の中身を若い人に紹介すると、結構興味を持つ人が多い。情報が溢れる中で、「そもそも」の話を知りたい欲求も強いのではないだろうか。

そうした仕組みの観点から、斬新な視点を提示したのはジャレド・ダイヤモンドの『銃・病原菌・鉄』(草思社)だろう。日本版は2000年の発刊だから、ある意味では、定番の本でもある。賛否を含めて、まず一読してみる価値はある。文庫になっていて、kindle版もあるので求めやすいのも魅力だ。

「16世紀にピサロ率いる168人のスペイン部隊が4万人に守られるインカ皇帝を戦闘の末に捕虜にできたのはなぜか?」

そのような、征服と被征服の原因は「銃と軍馬」にあるという。では、その差はどこから生まれてきたのか?

ここで、著者が最も重視するのは地形や生態などの「環境の差」だ。たとえば、食糧生産の伝播は東西には早く伝わるが、南北には遅い。このような差が、長期的には文明の差になっていく過程を解き明かす。

ただし、すべてを環境に帰していくような考え方には、当然異論もある。 >> いま世界史の本がおもしろい①の続きを読む



41Z24P3PHZLふと、テレビを見ていたら教育に関する話などの流れで、「人の痛みがわかる人になれ」というのが出てくることがある。

これが、どうも気になる。自分が子供の頃から、大人たちはそう言ってた。しかし、その頃から僕は疑っている。本当にそれでいいんだろうか?

思いやりを持て、というのならわかる。優しくしなさい、でもいい。

ただ、「人の痛みがわかるようになれ」というのは、言っている方の自己満足だと思っていた。

自分自身では「他者の痛み」というのは、そうそうわかるものではないだろう、という懐疑もある。

他人を殴った子どもに「あいつの痛みがわかるか!?」と叱っても、「わからないから殴る」わけで、どこか言葉に酔っているように感じる。

心理的な痛みとなると、もう相当にわからない。辛い人に「わかるよ」とか迂闊に言ったら、失礼になるのではないかと思い、よほど経験が類似したいない限り口にはできない。

悩んでいる人の話を聞くことは、仕事もであるし、私的にもある。そういう時に「痛み」そのものがわかることよりも、「どうして痛みを感じるのか」という因果関係を知るようにしている。

もしかすると「痛みがわかる」ことは不可能でも、「痛みに至る構造を理解する」ことは可能だし、それは他者のためになることもあるだろう。

なんで、そんなことが気になったかというと、「人の痛みがわかるようになれ」というのは、日本の教育に今でもはびこる半端な精神論の象徴のように思うからだ。 >> 「人の痛みがわかるようになれ」への疑問。の続きを読む



プロ野球に関心を持たなくなったのはいつ頃からだろうか。東京生まれだが、なぜかカープファンだった。1986年の優勝は社会人1年目だったが、神宮で決めた試合を友人と観に行った。最後は津田が締めていた。

先般、カープファンという20歳くらいの女性にそのことを話したら、キョトンとしていた。生まれる十年ほど前の話なのだから、僕にとっては「大下と杉浦がMVPで広岡が新人賞」の時代を聞いているようなものだ。そりゃ、わかるわけがない。

自分のプロ野球離れの理由はわからないが、球場へ行かなくなった理由ははっきりしている。のべつ幕なしに、応援歌が鳴っているからだ。そもそも、野球というのは一定のテンポでおこなわれるものではない。昔のように外野の一部でのどかにやってた頃はともかく、妙に達者なバンドがドーム球場でガンガンやっている中での観戦は苦痛なのだ。

というわけで、賭博などの話も「まあ、ちゃんとやれよ」くらいの傍観者なのだけれど、ちょっと気になるトピックがあった。

巨人を皮切りにあちらこちらで発覚した「勝敗に絡んだ金銭授受」という謎の慣行についてのアンケート調査だ。「勝ったら総取り」みたいな話は、あまメディアでは当然のように批判されているのだけれど、このスポニチの調査結果がおもしろい。

『ツイッター「スポニチ野球記者」で緊急アンケートを実施。「良くない。悪い慣習」「許容できる範囲内」が同じ44%と、真っ二つに意見が分かれた。』ということなのだ。

もちろん、ちゃんとしたサンプリングではない。ただし、わざわざ投票するのだから「プロ野球に関心が高い人」だと思う。そして、そういう人の中に相当の擁護派がいるのだ。

僕の周りにいる野球好きは、みんな呆れていたがそうとは限らないようだ。

なんでだろう?と考えたみると、これは「放っておいてやれよ」というファンの気分なんじゃないかと思った。いきなり建前を掲げて説教垂れるメディアへの反感だろう。

ただし、もっと前だったらどうだろうか。野球ファンの存在はメジャーであり主流派だった。「なんて恥ずかしいことしてくれたんだ」が多数となるんじゃないか。

それが、賛否半々である。そして、「まあ、いいじゃん」と思う人は、自分たちだけの綴じた空間にいるのだろう。

関東ではプロ野球中継は視聴率の低下から、地上波を追われ、BSやCSの一コンテンツになった。この20年ほどの流れは、プロ野球ファンが「少数派」へと転じていく流れでもある。一方でメディア上はともかく、各球場はそれなりに賑わっていて地方分散は成功したと言われる。

社会心理学に「少数派の研究」というのがある。「沈黙のらせん」理論などが有名だが、近年「少数派の残存」という知見が注目された。

それによると、少数派の人々を支えているのは少数派の人どうしなのだという。彼らは相互に自分の立場を強化しあい、外部からの影響を受けないという。しかも、自分たちは少数派と思ってない。

これは、まさに現在のプロ野球ファンの構造だと思う。放送が減っても、野球場にはたくさんいるし、身近に少なくてもネット上ではいろんな空間がある。

そういう人たちが「プロ野球ってカネまみれじゃん」と外から言われると、頑なになるわけだ。

この、「少数派の残存」というのはいろんなところに応用できる。ガラケーを使っている人は周りもそういう人ばかりだったりする。またデモに集まっている人も、自分たちが野党勢力であり、内閣の支持率は不支持率よりも高いことを理解するのが困難なのも同じ構造というわけだ。