2016年03月アーカイブ

マンションの広告のポエム化している、というのは結構前から話題になっているが、揶揄したような記事や、エリアごとの分析はあっても「なぜポエム化するか」というそもそもの話にはあまりなってないようだ。

先日、とある広告制作者とこの話をしていたら、結構広告表現の本質に迫って、やがて哲学的な話になってなかなか面白かった。

結論からいうと、マンションや住宅の選択基準は、「スペックまみれ」になっているので広告表現はポエム化するしかない、ということではないだろうか。

家を購入する過程は、家族の人数や年齢、予算、立地など様々な条件をクリアしていく過程でもある。そもそも広告見て「じゃ、買ってみっか」とはそうそうならない。

一方で、広告コピーとは「価値の提示」と「意味の付与」が最大の役割だ。この場合、商品選択の際に「スペックでガチガチ」になってしまったら、広告クリエイティブの余地がない。

だから、スペックだけが選択理由にならないような商品は、広告が活躍しやすい。

たとえば「ポカリスエット 広告」でグーグルの画像検索をしてみる。ビートたけしがいて、ダルビッシュがいる。そして、いまの広告は母と娘だ。昨年は、女子高生を主役にした「潜在能力をひき出せ」が話題になったが「汗は体くれたサインだ」という時もあった。ポカリスエットの成分は同じだが、広告が価値を提示している。

その製品の位置づけを、つまりブランドポジショニングを明示しているから、「ポエム」にはならない。

「いつかはクラウン」というコピーがあった。人生におけるクルマ選びの終着点ということを上手に表現している。この時代は、クルマ選びも今ほどスペックまみれにはなっていなかったのだろう。エンジンやシャシーとかを超えて、上手に意味を付与したのだ。 >> マンションポエムの話をしてたら、広告の本質論になってしまった。の続きを読む