就活の季節が始まると、例によっていろんな都市伝説が生まれる。最近になって根強いのは「体育会系学生」についての誤解だ。
体育会の学生について言えば「有利」という話が多く、短期的には間違ってもいないけれど、相当の落とし穴があることを指摘しておきたい。
まず、体育会系が有利な面はあるだろう。なぜなら、「体育会を積極的に採用する」と謳っている企業などがあるからだ。ただし、そうした企業に未来はあるのか?と考えると相当に怪しい。体育会というのは学歴と同じような表面的な履歴だ。過去のケースに照らして「一定の適合性がある」のかもしれないが、採用戦略としては思考停止だと思う。
ビジネス自体がスポーツに深く関わっているというならもちろん理解できるが、そうでない企業でもやみくもに体育会系を求めるところがある。
そもそも体育会の学生といっても千差万別だ。真っ当な企業であれば、「で、何ができるのか?」を見極める。単に「目標に向かって頑張る」とか「自己管理ができている」学生は体育会に限らずたくさんいる。
一方で、「上下関係に従順」という点ばかりを重視点にして体育会を採用しているならば、むしろ問題だ。ハッキリ言って、そんなことに拘っている企業は、これまた怪しい。全員一丸で同じところに向かえばいい時代ならばそういう人材は重要だろう。
しかし、そうした組織が環境変化に耐えられずボロボロになってきたことは、バブル崩壊以降に山ほど目にしている。それでも従順な学生を欲しがっているとすれば、その企業はトップ以下のマネジメント層が、相当に横着ということだ。
得てしてそういう会社が求めているのは、「理屈を言わずに売ってこい」というような仕事だ。そうした理由だけで採用された体育会の学生が、その後にどのようなキャリアを歩むのか。けっして幸せな人ばかりでないことは、ちょっと想像すればわかるだろう。
では、それでも体育会学生が一流企業にそれなりに多いのはなぜか?と思うだろう。そこには、別の理由がある。
体育会の学生の努力の量は半端ではないが、殆どの学生は一番にはなれない。必ず敗北や挫折を経験している。また、チームが勝っても本人はレギュラーでだとは限らない。それでも、最後まで頑張り続けるという「心身の強さ」を評価しているのだ。
つまり「努力と結果はまったく比例しない」ことを肌で感じていることが大切なんだけど、それはビジネスでは当然だ。一方、受験勉強は努力と結果の比例関係が強い。いわゆる偏差値秀才がビジネスの場面で「理不尽」を感じやすい理由もそこにある。
「頑張ってもダメだった」ことを起点にして、自分の頭で考えてきたかどうか。ちゃんとした企業なら、採用側が見るのはそういうところだ。その結果、体育会の学生が一定の比率を占めるが、そういう人材は体育会以外にもたくさんいる。ちゃんとした企業は、「体育会だから」という理由で特別扱いはしない。彼らの中の競争も相当熾烈である。
企業が学生を選ぶように、学生もまた企業を選ぶ眼を養う必要がある。少なくても表面的な採用を重視しているような企業は、疑ってみたほうがいいということだ。