2016年02月アーカイブ

NHK国民生活時間調査の発表があったようで、いわゆる朝型が増えているという。

高齢化の影響もあるだろうが、働く時間もシフトしているので、全世代的に同様の傾向があるようだ。

朝型か夜型か?という話になると、夜型は分が悪い。検索すると面白いんだけど「朝型」には、「なるには」というノウハウの話が多い。ところが「夜型」だと、「夜型にもすごい人は多い」という話が出てくる。つまり、最初から言い訳モードになっているのだ。

僕自身は朝型、というか夜が弱い。大学受験の時も0時を超えたことはない、というか無理だった。

というわけで、今でも基本的には朝早めに活動するし、睡眠不足ということはないし、昔から目覚ましは使わなくても普通に起きている。

もっとも体質によっても差があるようなので、誰でにでも奨めるわけではないけれど、朝型には心理的メリットがあると思う。

それは、時間に対して「まだ」と捉えるか、「もう」と感じるかの差だと思う。

6時台に起きて、猫に餌をやって水を取り替えて、ニュースチェックしてメール書いたりして、朝食食べて、風呂洗ってストレッチしてとかいろいろやって、仕事始めて一段落しても「まだ9時か」という感じだ。

昔クリエイティブの忙しいセクションにいた時は、みんなのスタートが遅い。やっと午後から起動して、なんだかんだで「もう9時だ」となる。もちろん午後9時だけど。 >> 朝型は「まだ」で過ごすが、夜型は「もう」に追われやすい。の続きを読む



いや、別に営業に限らず、どんな職種でも壁にぶち当たることはある。しかし、いろいろと観察してきた経験を総合すると、若くして優秀と言われた営業職ほど似たような壁に当たる。そして、そこを乗り越える際にも共通した動きがあると思う。

そもそも営業職は数字という結果を求められて、それに応えていくというサイクルで動いていく。このサイクルはプラスに回り始めると好循環を生む。自信がつけば信頼を得られる。それが、「優秀な営業」の無形のスキルになる。

「ここでカネを払わないと結局損をするかも」

相手がそう思うようになったら、相当なものだ。飲食店で「お薦め」を売るのも、億単位の取引を獲得するのも、そういう意味においては共通した心理があるのだ。

こういうサイクルにおいては、どんどん仕事が増えて、それをこなすことになる。会社としては、頼りになる営業が相当の収益を上げてくる。2割の人が8割の仕事をする、というような話もあるくらいだから忙しさは加速する。

こうなると、いわば壁打ちテニスのようになる。壁打ちテニスなら、マイペースでできるが、壁がどんどん接近してくるようなものだ。それを打ち返し続ければ、相当に鍛えられる。昔のビデオゲームの「テトリス」のような落ちゲーの達人みたいなものだ。

しかし、どこかで転機が来る。マネジメントの仕事になったり、企画職に異動したり、あるいは前例のないリセッションで市場が縮小したような時、彼らは想像以上に立ちすくむ。

テニスでいえば、サーブ権を得た途端にどうしていいかわからなくなる。ボールが来ないと、動けないという感じだ。 >> 優秀な営業が壁に当たる時の共通点とは。の続きを読む



そう、これは深いのだ。果たして猫は後悔するのか。

哲学者の野矢茂樹氏の著作『語りえぬものを語る』(講談社)の第1章の表題には「猫は後悔するか」とと記されている。

結論は、まず5行目にあっさりと書かれる。

「私の考えでは、しない。いや、できない」ということだ。異論のある方もいるかもしれないが、まずは氏の考えを追っていく。

そもそも、後悔するには、事実に反することを想像する必要がある。では、なぜそれができるのか。そのためには、「世界が分節化」されていなくてはいけない。

「犬が走っている」という事実がある。その時僕たちは、「犬」という対象と、「走っている」という動作という要素から構成されていると捉える。これが分節化だ。

分節化された世界にいるからこそ、「犬が逆立ちする」という事実に反することを想像できる。そのためには、分節化された言語が必要だが、猫はそれを持ってない。

犬が走っていれば、「走っている犬」という現実に対処するだけである。猫だけではなく、犬だってそうだろう。

という説明である。たしかに、そうだ。 >> 「猫は後悔するか」問題について。の続きを読む



新聞を巡る課題はとても幅広いテーマだが、人によって見方が全く異なる。

学生などを初め、30代くらいまでは読まない人が多い。一方で、重要な情報源として熱心に読んでいる人ももちろんいるし、「取材して伝える」という基本的機能の潜在力は相当高い。

そうしたリソースをどう活かすか?というのはマーケティング的にも興味ある課題だ。

そうした中で、気になる記事があった。掲載されているのは、読売オンラインの「ヨミドクター」というコーナー。医療関係の読み物が集まっているのだが、その中の「原隆也記者のてんかん記」という連載コラムだ。

この記者の方は転換を患っているのだが、その経緯やいまの状況、あるいは生活の様子や事件への思いなどを綴っている。おなじコーナーには、白血病の記者の闘病記もあって、つまり読売の記者が「個人体験」を記事にしているのだ。

記者による癌などの闘病記には前例もあったが、てんかんは珍しいのではないだろうか。ご本人も書かれているように、人に対して隠してしまうことの多い病でもある。そうした経緯も含めて、いろいろなことが書かれている。とても勇気がいることだし、筆者も会社もよく決断したなと思うが、読むたびにいろいろなことを考えさせられる。

強い主張は、ある意味簡単だ。しかし「考えさせる」記事は少ない。そして、それにこそ大切な価値がある。てんかんは、自動車事故の問題もあり大変にデリケートな面もある。患者が声をあげることも容易ではないし、代弁者も必要だろう。そうした中で、この取り組みは新聞ジャーナリズムの今後のあり方のヒントになると思う。 >> 読売オンラインの「てんかん記」に感じる新聞の可能性。の続きを読む



先日「文系もエンジニアになるべきなのか?」という記事を書いた。米国ではいわゆる技術職とそれ以外の給与の差が開いているということだ。

僕は就活の相談を受けることは多いが、一方で大学選びの話を聞くことも増えてきた。つまり就職という点からの示唆を聞かれるわけだが、これが結構困る。というのも、この相談の大概が文系学部なんだけど、そもそも文系って将来どうなるのか?ということになると相当悩ましいと思うからだ。

何らかの専門性を持つこと、つまり「エンジニア」発想でいかなければいけない、というのは理解してもらえるけれども、ではどこの学部がいいのか?というのが悩ましい。

そもそも、文系学部の専攻内容は就活に直結しない。それでも文系学生が採用されていたのはなぜか?

それは、企業が能力開発の面倒を見てきたからだ。メーカーであれば、製品の成り立ちなどについて知るし、金融であれば関連する法などについても学ぶ。その際には、一定の理解力と努力する習慣を持っていることが望ましい。そうした能力は大学受験の時に求められるものと類似しているので、結局は大学名が一定の影響力を持つ。

ところが、これからのビジネスでは、そういった能力が重視されるのか?というと相当に怪しい。

たとえば金融ビジネスでも、求められるのはテクノロジーの知識と開発力だ。またメーカーの競争力もひとえに研究開発にかかっている。

じゃあ、営業を始めとする文系社員は、なぜ必要だったのか?それは、一定のルールを理解して、その通りに頑張ればどうにかなるという時代だったからだ。市場が伸びていれば、そこにアプローチしていく人が必要になる。国内が頭打ちになっても、グローバル市場で競争することで日本企業もどうにか残ってきた。

しかし、ここに来て様子が変わってきた。世界のどこへ行っても供給側のプレイヤーは飽和している。収益性を重視する企業が、これからより多くの社員を雇って拡大を図るとは思えない。そして代替できる仕事はどんどん自動化されていく。 >> 文系に未来はあるのだろうか。の続きを読む