昨日母校の近くを歩いていてふと気づいたんだが、今年も今頃が合格発表だろうか。
今でも受験番号を覚えているくらいだから、印象が強いのだ。
その後、港区役所に行って自分の戸籍をとった。本籍は港区三田で、そこに曾祖父が家を構えていたので、初めてその地まで行って驚いた。三田の旧図書館を裏から望む場所なのだ。戦中にそこから越して、その後は小泉信三氏が住まわれたという。
過去の記憶だから相当美化しているとは思うのだけど、結構勉強はした。選挙理論や予測が専攻だったが、政治理論や法哲学も面白かったし、ドイツ語の講義で学んだ世紀末ウィーンの文化とか、一般教養の国際政治とかも楽しかった。
今でも懇意にさせている先生がいるのだから、大規模私学の割には運にも恵まれていたと思う。
今年は3月1日が実質的な就活スタートになり、学生から話を聞くこともある。そのたびに引っかかるのが「何を学んだか」ということを話したがらない学生が多いということだ。
勉強していないなら仕方ないと思うけど、ゼミでみっちり学んでいる学生も、そのことを前面に出そうとしない。
どうやら「学部で学んだことはそうそう役に立たないし、ESに書いても関心を持たれない」という思い込みや都市伝説があるようだ。
というわけで、バイトやサークルの話が多いのだけれど、もうちょっと学びのことを書いてもいいのではないだろうか。
だって、大学生なんだし。
別に専攻と仕事が直結している必要もないし、それを期待しているわけではない。ただし、どんなことでしっかりと学ぶ過程には意味がある。それは、疑いを持ち、自由な思考をするということだ。
高校までの学びと決定的に異なるのはそこだ。大学受験までは、疑うよりも覚えることが優先される。それでも、大学への学びにつながるような話をしてくれる先生が時折いるが、殆どの大学入試はパターン認識と情報処理能力で決まる。問題を見て「過去に見たものと近いモノ」を思い起こして、正解のための手順を時間内に再現できた人が優位だ。
大学で学ぶのは、過去のセオリーを知りつつ、そこに疑問を呈していくことだ。そこで気づいたことをわかりやすく話ができれば、面接する側も「ああ、なるほど」と感じることは多い。ところが、問答は妙なことになりやすい。
「大学のゼミでどんなことを学んだの?」
「はい。論理的に考えることと、最後まであきらめない姿勢です」
実際こういうケースが結構あるんだけど、具体的に学んだことを、それを知らない他者に伝える。「コミュニケーション能力」って、実はそういうことだと思うんだけどね。
たとえば専攻で「源氏物語」を研究していた学生が広告会社の面接に来たとする。
「人間の欲望や喜怒哀楽の普遍性について、幾度となく考えました」
僕だったら、「もしかしたらユニークなマーケターになれるかもしれない」と思うし、少なくてももう少し話を聞きたいと思うのだ。
就活に臨む学生は、今からでもいいので、もう一度「何を学んだか」を整理し直した方がいいんじゃないかな。
先日学生たちと就活のことで話す機会があって、いろいろと質問を受けた。ところが、妙な都市伝説のようなものが結構多い。
「メーカーではスーツの色は黒がいいと聞いてますが」
「銀行員の前で、“公務員受験を考えていた”と言ってはいけないんですよね」
みたいな話だ。銀行員は公務員を嫌っている、という話だが、出所はよくわからない。この手の噂は年々増えている。スーツの色についても不明。
この手の「真実の話」ほど、真実から遠かったりする。大学生が世間を知らないから、というのではない。齢をとっても、妙なものに嵌る人はたくさんいる。
スーツの色で思い出したけれど、新入社員へのアドバイスの記事で「米国大統領」を持ち出していたものがあった。結論として紺かグレーを選ぶべき!という一般的な話なんだけど、そもそも新入社員が大統領の服をまねる必要性がどこにあるのかいな。
それより自分の似合うものを選べばいいと思うんだけど、それじゃ記事にならない。つまり、フツーのことをフツーに伝えても目立たないのでそういう話になるんだろう。
その手の記事づくりが増えるから、ネット上には「○○すべき」話が溢れて、一定の人がそれに煽られるから、真実もどきが増殖する。
そういうわけで、学生や若い人へのアドバイスは単純になる。「真実は」と謳っているものは、とりあえず疑っておけということだ。「真実を探す」とか言う記事を読むと、そもそもの事実誤認だったり曲解だったりする。
「メディアは真実を伝えない」というのは、たしかにそうかもしれない。ただし、その思い込みが強い人は一定数いる。池の魚に餌を撒けばワラワラと寄ってくるように、「マスコミが伝えない」というだけで、寄ってくる人がいるのだから、彼らが満足する情報を書けばそれで成り立つのだ。 >> 学生も大人も感染する「真実もどき」の続きを読む
何でもかんでも、「仕事に役立つ」という話にするのは野暮で嫌いだし、「*つの理由」とかいうタイトルも陳腐化していて嫌なんだけど、まあたまには書いてみようか。「~べき理由」にはしないけどね、さすがに。
で、僕は料理をする。まあ、クックパッドは使わない。理由はこちらに。そして学生や若手の社会人が料理をするというと、奨めることにする。会社員の頃、トレーナーをやっていた時もそうしていた。
で、理由は3つある。
まず、物事の手順や段取りを覚えるのに役立つ。沸かした湯で野菜を茹でるなら、先に火をつけてから野菜を切る。幾つか作るなら、まず時間がかかって、ある程度放っておける煮物に手をつける。手早く炒めるなら、先に調味料を手元に揃える。とかそういう類の話。
仕事でも、朝一番に予定伺いのメールを送っておいて、返事が来るまでの間に段取り進めるとか、そうした基本動作に近いことと同じ。
次に、料理というのは九割九分ロジックで決まる。おいしいか、おいしくないかは、どこかに原因がある。それは、素材か、調理か、あるいは気候か……などなど。特に調理のルールには、その背景に理屈があるのだ。
たとえばパスタのソースと麺の太さには一定の相性がある。 >> 料理作りは仕事に役立つと思う3つの理由。の続きを読む
【本の話】リチャード・E・ニスベット著 村本由紀子(訳)『木を見る西洋人 森を見る東洋人』 ダイヤモンド社
この図を見ていただきたい。この3つの対象物のうち、下にあるものはAとBどちらの仲間だと思うだろうか?つまり3つの対象物のうち2つを一緒にするなら、どれとどれをまとめるだろうか?
これは本書の中で紹介される実験の1つである。そして、その結果は西洋人と東洋人で異なる結果を示すというのだ。
西洋人は、「牛と鶏」を1つにする。一方で東洋人は「牛と草」をまとめようとする。「動物」という分類上の観点で見るのが西洋人だが、東洋人は「牛は草を食べる」と考えるというのだ。
こうした事例を紹介しつつ、西洋人は「名詞で世界を捉える」のに対して、東洋人は「動詞で世界を捉える」というのだ。他にも似たような事例が紹介される。
本書は、西洋人と東洋人の心や思考のあり方を比較検討した本だ。こうした比較はよく行われている。タイトルにあるような世界観にしても、西洋医学と漢方の違いのようにして何となく認識しているのではないだろうか。また、スターウォーズにしても東洋的な神秘性を取り入れることで、独特の世界観を築いている。
本書では、古代ギリシャと中国の比較などから始まり、それぞれの自己のあり方の差異についても論じる。この辺りまでは一頃の日本人論、などにも近いものがあり少々既視感があるかもしれない。 >> 【本の話】木を見る西洋人 森を見る東洋人の続きを読む
都市伝説の類で真偽を確かめたわけではないが、かつて英国小説の訳でこんな感じの一文があったという。
「彼はレコードに針をおろして、“ジョンの情熱”のメロディーに耳を傾けた」
さて、“ジョンの情熱”というポップスはあるかもしれないが、どうも怪しい。実はバッハの「ヨハネ受難曲」だったというのがオチなのだ。ヨハネ受難曲はJohn Passion、受難曲は英語でpassionとなる。そんなタイトルの映画もあったと思うが、まさにキリストの受難と磔刑を描いていたはずだ。
どうして、passionにそういう意味があるのか?というのを調べるといろいろ出てくるだが、結構複雑なのでここでは細かく触れない。
ちなみに、今は復活祭(イースター)に向けた四旬節の真っただ中だ。四旬は40日だが、日曜を除くので実際は46日間。復活祭は春分の日以降の、最初の満月の次の日曜日なので、今年は3月27日。
受難曲はこの季節に演奏会が開かれることが多い。そして、取り上げられるのは「マタイ受難曲」だ。ただし、ついつい聴く機会を逸する。年末の第九のように、あちらこちらでやってるわけではない。日本では年度末の時期にあたるし、気がつくと「ああ、終わってた」ということになる。今年は行く予定だが。
マタイ受難曲は、マタイによる福音書を題材している。ものすごく大雑把にいうと、聖書の言葉に曲をつけて、適宜加筆しながら全体を構成したものということになる。最後の晩餐、ユダの裏切り、ペテロの否認と有名なシーンが続く。
こう書くとわかりやすそうに見えるが、なんといっても題材が受難だ。聴く方にも、それなりのエネルギーがいることはたしかだ。
ただ、ふとしたきっかけでつき合い方が変わった。 >> 【音の話】復活祭までの四旬節に、マタイ受難曲。の続きを読む