街を語るのは難しい。というのも、本人の経験が限定的だからだ。
現住所は基本的に1つだし、勤務先やら留学先とかをかき集めても限度がある。だから、街を語る文化人はフィールドワークをするわけだが、これもまた時間がかかる。
そして、どうなるかと言えば、知識勝負になる。だから、現代日本の話に古代ローマや中世の京都とか持ち出してくるわけで、聞いてる方としてはもうどうでもいい感じになっていく。
しかも、その街の当事者が語るとは限らない。まあ、語るだけなら誰が語ってもいいんだろうけど、他所の人が「これを壊すなんて」と言ってきて面倒になることもある。
そうした理屈と関係なく、好きな空間を語り倒すとなると、結構思いもよらない発見がある。昨日書評を書いた「ショッピングモールから考える」にはそうした楽しさがあった。
ただ、僕自身の感覚としては、それほどピンと来るわけではない。もともと、東京区部の西で生まれ育って、高校までは区内だった。転勤後に結婚したが、東京に長い割には知ってる場所が少ない。結局は似たような場所にずっと住んでいる。
30年以上通っている小さな店には、顔なじみの高校の先輩がいる。新しい店も増えたが、そこにも常連がいて濃い空間をつくっている。
それが当たり前の世界なのだけど、だからといってモールを批判する人の気持ちもよくわからない。僕の住んでいる昔ながらの住宅街と、駅から連なる店は相当に閉鎖的でもある。ことに酒を飲まない人にとっては居場所が相当限られる。夜にメシだけを食って帰ろうとすると選択肢が少ない。コンビニが流行るのも納得できる。
モールに代表される再開発エリアの方が、よほど選択肢が広い。それを「猥雑さや陰影がない」などと評するのは簡単だが、そもそも街にそういうものを求めるかどうかは、個人の好き好きだろうし、生まれ育った経験にもよる。 >> 街を語る文化人の落とし穴。の続きを読む