というわけで、今月の振り返りと展望など。
2月は逃げるとはよく言ったもので、年明けは静々と進むが、月が替わるとになると加速したようになる。単に日数が少ないというだけでは説明できない。春が近くなると、「とりあえず2月はいいから、3月来い!」みたいな気分になるのだろうか。
入試や決算もそうだが2月は仕込みのようなところがあり、3月に諸々と決着がついて新年度という感じになる。
今年は年初から芸能ネタから国際関係、あるいは事故・事件などが相次いだので、2月はそれに比べれば「一段落」のようなところはある。ただし、国際的に潮目の変化を感じるニュースが多かった。
1月末の日銀によるマイナス金利決定は大きなインパクトだったが、株式市場は世界的に下降基調にあり、かつ乱調だ。原油増産は凍結といっても減産をしないのなら当分は負の影響が続くだろう。当然のように、為替もややこしいことになっている。
東京市場の下落を受けて、アベノミクスの終焉というタイトルも目立つようになった。新聞社の世論調査もアベノミクスへの賛否を問うていて、多くが「反対」というが、マクロ政策などについて自分の見識を持っている人はそうそういないわけで、実際に内閣支持率は横ばいのようだ。
一方で、欧州から中東においては大きな動きがあった。シリア停戦がどうにか発効する一方で、EU改革案について合意。キャメロン首相には得点のように見えたが、ロンドン市長が離脱賛成の意思表明をおこなうなど混沌としている。一方でドイツも移民の抑制策を議会が可決するなど方向転換が進んでいる。
昨秋からの難民流入に関する政策が大きな転換点を迎えた。僕はドイツの「寛容」な政策には懐疑的なことを書いていたが、結局こうなったのかという感じである。いずれにせよEUは正念場を迎えるが、そういえばFIFAの新会長はスイス出身の45歳に決まった。 >> いろいろ決着を先送りして2月は逃げる。の続きを読む
街を語るのは難しい。というのも、本人の経験が限定的だからだ。
現住所は基本的に1つだし、勤務先やら留学先とかをかき集めても限度がある。だから、街を語る文化人はフィールドワークをするわけだが、これもまた時間がかかる。
そして、どうなるかと言えば、知識勝負になる。だから、現代日本の話に古代ローマや中世の京都とか持ち出してくるわけで、聞いてる方としてはもうどうでもいい感じになっていく。
しかも、その街の当事者が語るとは限らない。まあ、語るだけなら誰が語ってもいいんだろうけど、他所の人が「これを壊すなんて」と言ってきて面倒になることもある。
そうした理屈と関係なく、好きな空間を語り倒すとなると、結構思いもよらない発見がある。昨日書評を書いた「ショッピングモールから考える」にはそうした楽しさがあった。
ただ、僕自身の感覚としては、それほどピンと来るわけではない。もともと、東京区部の西で生まれ育って、高校までは区内だった。転勤後に結婚したが、東京に長い割には知ってる場所が少ない。結局は似たような場所にずっと住んでいる。
30年以上通っている小さな店には、顔なじみの高校の先輩がいる。新しい店も増えたが、そこにも常連がいて濃い空間をつくっている。
それが当たり前の世界なのだけど、だからといってモールを批判する人の気持ちもよくわからない。僕の住んでいる昔ながらの住宅街と、駅から連なる店は相当に閉鎖的でもある。ことに酒を飲まない人にとっては居場所が相当限られる。夜にメシだけを食って帰ろうとすると選択肢が少ない。コンビニが流行るのも納得できる。
モールに代表される再開発エリアの方が、よほど選択肢が広い。それを「猥雑さや陰影がない」などと評するのは簡単だが、そもそも街にそういうものを求めるかどうかは、個人の好き好きだろうし、生まれ育った経験にもよる。 >> 街を語る文化人の落とし穴。の続きを読む
東浩紀 大山顕 『ショッピングモールから考える~ユートピア・バックヤード・未来都市』幻冬舎新書
本書は2015年に電子書籍のゲンロン叢書から発行された対談が元になっている。思想家の東氏と、フォトグラファーの大山氏。大山氏が「工場萌え」などの写真集などで知られるように構造物に対しての知見を繰り広げながら、東氏がかねてか論じてきたように、モールの現代における意義を改めて語る。というような感じでもあるが、実際は話は広がり、混沌としながらも、いろんな発見のある本だった。
ショッピングモールと言えばグローバル資本主義の象徴であり、日本でも多くの商店街を「シャッター通り」化した張本人のように語られることが多い。そこに対して「新しい公共性」を考えるというところからこの対談は始まる。
東氏が東京の西荻窪という大変「意識の高い街」に住んでいながら、子どもができた途端に厳しくなったという話が冒頭の方にある。店には入りにくいし、街なかはベビーカーで移動しにくい。そうした経験をもとに、「顔が見える」商店街が本当に優しいのか?という問題提起から話は始まる。弱者に優しいのは、モールではないか?と。
この発想から、構造物のモールを見ると「内と外が逆転している」という大山氏の指摘が出てくる。モールの写真を撮ろうとすると、どうしてもうまくとれない。一方で象徴的な空間は吹き抜けだという。つまりモールの本質は快適な内装にあるのだから、建物の携帯は意識されない。
この辺りの話だけだと「まあ、そりゃそうだろ」となるのだけど、整えられた内に対して、外はすべてバックヤード化されていて、それがスターウォーズのデススターと似ている話に広がり、デススターの外観と東京の空中写真が似ていて、それは屋上がバックヤード化しているからだとかいうように展開される。
そして、トマス・モアの「ユートピア」出てくる島が、モールの構造と一致しているという具合に、話はどんどん広がっていく。
実は、この奔放さがこの本の面白いところだ。 “ショッピングモール”というテーマから生まれた変奏曲が、どんどん姿を変えていくさまは一読の価値があると思う。
建築や流通、都市工学の専門家やなどが見たら、いろいろと突っ込むのだろうと思う。しかし、そうしたプロこそが凝り固まっていて見落としていた発見のようなものが結構詰まっていると思うのだ。
モールを「砂漠の中のオアシス」と見立てつつ、その構造のルーツをイスラム庭園じゃないか?と盛り上がる。もちろん、これはNo Evidenceと言いつつも、実際のモールの中の植物が「地中海性気候」の体現だ、という話でまた唸らされる。
個人的な感覚としては、実はそんなにモール好きではない。ただし、この本が単なる与太話に見えるようだったら、少々アタマが固くなってるのではないかな。
その辺りの話の続きは、また明日に。
民主党が党名を変えるかもしれないという。
ううむ。維新側はそういう主張になるだろうが、参院選までに浸透させることができるのか、というよりもそもそも新党の名前って相当難しくなってるのではないか。
伝統的な政党名は、「自由」「民主」「共和」「社会」「共産」のような感じだったが、日本で変化があったのは1993年の細川政権の頃からだろう。「日本新党」「新生党」などが誕生して、その後はもういろいろである。
民主党の安住淳氏が「惑星とか新幹線のような名前はもういい」と言ったそうだ。たしかに「のぞみ」「かがやき」的なのはもういいだろう。「惑星」というのはよくわからないけど、「ジュピター」とかイメージしたのか。まさか「ビーナス」や「サターン」ではないと思うが。
政党名が揺らいでいるのは日本だけではない。僕の記憶ではイタリアの”Forza Italia”(フォルツァ=頑張れ)辺りからではないかと思うが、これも1994年。最近ではスペインでPodemos(英語のWe canの意味)という左翼政党が人気を集めているという。
なんでこうなったのか?とても単純に考えると、政治の世界で「主義」が消失したからだろう。クラシックな政党名は、そのあとに「~主義」とつなげることができるものが多かったのだ。
ところが冷戦が終わり、社会主義や共産主義がああいうことになってしまった辺から迷走が始まった。もはや新たな主義などない。そうなると、拠り所はなくなっている。
かくして「大地」「日本のこころ」とかだと、もはや有機野菜の食堂のようになってしまうわけだ。
ううむ。何か手がかりはあるんだろうか。 >> 主義なき時代の政党名の悩ましさ。の続きを読む
テレビCMが若年層特に十代に対して相当届いていない。このことは横山隆治氏の「新世代デジタルマーケティング」でも言及されていたし、こちらのブログにも書かれていた。
さて、そうなって来ると結構想像もしていなかったことが起きるかもしれない。
それは、有名だと思われていたブランドでも、そもそも「知られてない」という事態だ。
そもそも、「ブランドを知る」というプロセスってどうだったのだろう。子どもの頃から振り返ってほしい。
多くの人は「店で見た」というかもしれない。でも、本当にそうだろうか?飲料や菓子などは、そういうことも多いだろう。では、エレクトロニクスはどうだろう?電器店まで行くようになるのは、それなりの年齢になってからではないか。クルマはどうか?親と一緒にディーラーに行くことはそんなにはないだろうから、「家にある」か「街を走る」クルマを見て認知したのだろうか。
というように考えていくと、想像以上にTVCMによって認知が促進されていたのではないか?という可能性に思い至る。こればかりは検証しようもないので「自分は違う」と言われればそれまでだ。ただし、今のようにテレビ接触が減っていくと、「そもそもブランド知りません」とか、知っていてもイメージは追いつかないということになるかもしれない。
というのも、認知を得るための売り場自体が変わっていく。中高生がコンビニに行っても、ナショナルブランドに接する機会は減っている。ドラッグストアでもそうだ。特に十代向けの商品は乱立状態になっている。
そしてTVを見ないとなると、森永や日清や花王やP&Gという「誰もが知っているブランド」という前提は結構怪しくなるかもしれない。 >> 携帯各社のCMを真似てはいけない。の続きを読む