一週間でマーラーとブルックナーを聴くと、さすがに疲れる。月曜日にムーティ=シカゴ響の「巨人」、木曜日にスクロヴァチェフスキ=読響でブルックナーの8番。特にブルックナーのあとは、ホールを出てからも何度も「フゥ~」と息をついて、その後のビールが、妙に進む。もう、スポーツの後と同じような、心地よい疲労感だったのだ。
それにしても、「ブルックナーやマーラー」というように一括りにされるのは、ちょっと不思議だ。歳はブルックナーが36歳年上で、親子ほど違う。長大な交響曲を書いたということが共通していて、1970年代半ばころから段々と演奏会や録音の機会が増えてきたときに、なんとなく「セット」になったのかもしれない。
検索すると「マーラー ブルックナー 違い」というワードが候補になるのも、なんとなくわかる。妙ではあるが、並び称させれてしまうことが多いのだ。
ただ、それぞれの「ファン」には特徴がある。どちらも好きという人ももちろんいるが、マーラーが好きな人の中には、「ブルックナーは苦手」という人がいて、やはり単調に感じてしまうらしい。
一方で、ブルックナーを崇める人の中には、マーラーをあからさまに嫌う人がいる。マーラーの音楽は計算的設計されていて、その辺が「チャラチャラしている」と感じるらしい。
でも、この2人の想念には相通じるものがあるんじゃないか。最近そう感じるようになった。
2人が生きた19世紀末の欧州は近代の市民文化が爛熟して、都市は威容を見せていく。パリ万博にあわせて、エッフェル塔が建設された頃で、ウィーンでは分離派が活躍する。
ウィーン宮廷歌劇場の音楽監督だったマーラーは、そうした時代の舞台で踊っていたと思う。
ただし、それは孤独なダンスだったのだろう。書いた曲が評価されるのは後世となることを知っていたように、時代が受容しないような壮大なつくりの曲を作り続ける。華やかな時代に負けないように、自分の存在を見せつけようと抵抗した。
マーラーの楽譜をよく読みこんだ演奏ほど「狂気がない」と評する人がいるが、マーラーは「狂ったふり」をしていて踊っていたのだろう。
ブルックナーもまた、孤独な抵抗をしていたと思う。そういった意味で、共通した想念を感じるのだが方法論が異なる。踊って目立とうとしたのではなく、祈るように曲を編んでいった。その響きに浸っていると、微笑んでいるかのように感じる時がある。
ブルックナーは決して居丈高な音楽ではなく、優しい微笑がその本質ではないだろうか。
ブルックナーの8番には名盤が多いが、結構好きなのはセルの演奏だ。楽譜をキッチリと読み込んだ澄んだ演奏だ。もっとも「深遠な精神性」などという意味不明な言葉をありがたる人には物足りないかもしれない。
巨人もまた名盤が多いが、ある意味失敗しにくい曲でもある。ただし、この曲の中二病的な大仰さをてらいもなく演奏するのは、指揮者が若い時の録音がいいように思う。小澤征爾が42歳の時にボストン響と録音した一枚は、そうした熱狂が伝わってくる。
なお、いろいろと調べていたらなぜか「巨人の星」のCDが引っかかってきた。いわゆるコンピレーションで、なぜかマーラーの「巨人」のフィナーレも収録されている。