シカゴ交響楽団 日本公演
指揮:リッカルド・ムーティ
2016年1月18日(月)19:00 東京文化会館 大ホール
ベートーヴェン/交響曲第5番 op.67 ハ短調
マーラー/交響曲第1番 ニ長調『巨人』
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開演前から、妙な緊張感が漂っていた。前夜からの雪もあって、客は早めに到着している。ムーティがシカゴ響音楽監督就任後の初来日で、一曲目がベートーヴェンの5番。
そして、タクトが振り下ろされる。
(あ、合ってない…)
有名な動機が、モゴモゴとした響きになる。ちょっとオケが暖まっていなかったのか、リピート後はシャキッとしてきて、2楽章はたっぷりと弦が歌い、スケルツォの低弦は豊かに響いて、ティンパニーがジワジワくるのだが、ここまでの印象は「ややゆったりと室内楽的なベートーヴェン」だった。
ところがフィナーレに入ると、「速ッ」と心の中で叫ぶ。ああ、さすがムーティ。ここまでの音楽が抑制的だったのは、この一瞬の解放のためだったのか。ベートーヴェンの5番は、冒頭こそ有名だがそうそう鳴るわけではない。ところが、フィナーレでトロンボーンが加わり、ティンパニーとトランペットが要所を締めて、弦の内声を強めると一気に迫ってくる。一気に畳み込んで、終結へ。これだけで、いい疲労感が残る。
そして、休憩後は「巨人」だ。74歳のムーティが、「若気の至り」のようなこの曲をどう演奏するのだろうか。
冒頭から、音作りはゆったりとしている。オーソドックスに積み上げていって、フィナーレに焦点を持ってくる方法だろうか。ベートーヴェンの5番と同じく、1つの主題が成長していくシンフォニーだから、そういうアプローチをする前提で、この楽曲選定かな?とも感じた。
予想は半ばあたった。ただし、ベートーヴェンと異なり、フィナーレのテンポは遅め。第二主題は、オケへの指示も濃く、たっぷりと歌わせる。そして、音の大伽藍を見せつけるようにして、コーダへ突入。最後は「前のめり」という指示があるはすだが、加速をせずに、最後まで鳴りきらせた圧巻の響き。シカゴ響のホルン8名の起立は壮観だった。
シカゴ響は、縦のアンサンブルが時折乱れることがあったが、終わってみればキラキラとした響きの豊かさが印象に残る。一方で、マーラーの3楽章の響きは奥行と広がりがあり、管楽器の中でもオーボエが鮮烈だった。東京文化の残響の少なさも、このオケではむしろプラスになっていたように思う。というか、演奏が終わってから「あ、ここは上野だったのか」と思うほどの密度の濃いサウンドだ。
帰り道にふと思ったんだけど、そういえばマーラーはユダヤ系のボヘミア人だった。ウィーンで活躍しながらも、どこか辺境者としての屈折があったと言われている。しかし、そうしたことは、演奏を聴いてる間は、すっかり忘れていた。
ただし、それはマーラーの演奏として間違っているわけではないと思う。「巨人」の完成から100年をとうに過ぎて、古典として再現される時代になったということだろう。
ムーティのテンポ設定は、理屈で行くとバランスが妙なところもあるが、オペラの感覚だと思うと腑に落ちる。全体的なコンセプトよりも、その時々の「最高の聴かせ方と鳴らし方」を追求しているのだろう。それが、シカゴとの関係ではプラスになっている。
というか、これはオペラ指揮者と言うより、歌舞伎の千両役者に近い。マーラーの最後で、もし許されるなら「たっぷり!」と声を掛けたかったくらいだ。
そういえば、いま「花道」という言葉が似合う指揮者はムーティくらいだしなぁ。