「させていただきます」という言葉は、結構前からあるようだけど少し前の「国語に関する世論調査」でも取り上げられて、NHKの番組でも敬語講師という方が解説してる。
まあいろいろ見ても肯定的な論調は少ないんだけど、ここ5年くらいで「変じゃないの?という話が増えている。
僕も、基本的には推奨しない。「プレゼンテーションを始めます」で何の問題もないと思うのだ。
ところが、この言葉については遥か昔にとある方がバッサリと斬っている。詩人の大岡信が新潮社の「最新日本語読本」というムックのインタビューでこんな風に話しているのだ。
『慇懃無礼。相手との接触に間を置こう、トラブルを避けようというおよび腰の姿勢が感じられます。』また「したいと思います」についても、次のように言う。
『さらに「思います」を加えるのは、決断を避けているわけで、他人に立ち入られたくない、ナメられたくない、責任をとりたくない心理がそこに働いている』
つまり「させていただきたいと思います」は最悪ということになる。
このインタビューは1992年、つまりほぼ四半世紀前のものだ。言葉に敏感な人は、その頃から気にしていたのだなと思う。
つまり「最近の風潮」というよりも、根の深い話なのだ。
と思っていたら、最近驚いたことがあった。実はこの表現に司馬遼太郎が言及していたのだ。『街道を歩く・24』の「近江の人」という節に、この表現についての言及がある。 >> 「させていただきます」問題とNHK。の続きを読む
宜野湾市長選挙の結果が報じられていた。こういうニュースを聞いた時には、まず最終得票数を探すのだが、意外と報道のサイトに載るのが遅かったりする。昨日のNHKなど、両者とも1000票で当確を出していて、そのあとはいわゆる「政局分析」になる。
官邸の反応や、今後の政治への影響や夏の参院選がどうしたとかなんだけど、どうして票の分析をしないんだろうか。
これを見ると、今度の選挙が意味することが分かると思うのだ。
宜野湾市の選管が発表した数字を見てみよう。自公の推した候補は4年前と同一の現職候補だ。一方で野党系は候補が変わっているのだが、99票の増加でほぼ横ばいだ。
一方で、与党系の候補は6,000票以上増加している。投票率が、63.9%から68.7%に増加したと報じられたが、投票率の増加分がそっくり与党系に流れているようにみえる。 >> 宜野湾市長選挙で報じられない単純な数字。の続きを読む
【読んだ本】ウィリアム・ケント・クルーガー(著) 宇佐山晶子(訳) 『ありふれた祈り』 早川書房
昨年の8月にkindleで購入して、すぐに読み始めたのだが、つい先日に読了した。一つの小説にこんなに時間をかけることはなく、そもそも途中でわからなくなりそうなものだが、半分を過ぎるころから一気に読んでしまった。
昨年の海外ミステリーの中でも高評価の一冊だが、謎ときという意味において、スリルや驚きを求めすぎない方がいいだろう。経験豊富な読者であれば、謎については検討がついてしまうと思うのだ。
それでも、小説としての味わいは一級だと思う。内容紹介は以下のようにある。
『あの夏のすべての死は、ひとりの子供の死ではじまった―。1961年、ミネソタ州の田舎町で穏やかな牧師の父と芸術家肌の母、音楽の才能がある姉、聡明な弟とともに暮らす13歳の少年フランク。だが、ごく平凡だった日々は、思いがけない悲劇によって一転する。』
小説は、その夏を回想するという一人称の形式でつづられる。
この内容紹介にあるように、静かな街に訪れる死の影と、その波に翻弄される人々を描いていく。全編は哀しみの旋律が奏でられているが、悲痛ではない。それは、タイトルの「祈り」という言葉に込められている。
現代は、”Ordinary Grace”で、このgraceは食事の前などの祈りだ。prayerではないのだが、その意味が明かされるシーンはこの小説のひとつのクライマックスになっている。
そして、それはピアニッシモで奏されるような頂点だ。その静かな感動を核にして、全般が精緻に設計されている。
トマス・クックの「緋色の記憶」、あるいはジョン・ハートの「ラスト・チャイルド」、そして「スタンド・バイ・ミー」など、少年を主人公にした米国生まれの名作は数多い。この小説も、そうした群峰につらなる名作だと思う。
それにしても、こうした少年を主人公にした小説群がなぜ米国で誕生するのだろうか。 >> 【書評】ありふれることのない名作。「ありふれた祈り」の続きを読む
一週間でマーラーとブルックナーを聴くと、さすがに疲れる。月曜日にムーティ=シカゴ響の「巨人」、木曜日にスクロヴァチェフスキ=読響でブルックナーの8番。特にブルックナーのあとは、ホールを出てからも何度も「フゥ~」と息をついて、その後のビールが、妙に進む。もう、スポーツの後と同じような、心地よい疲労感だったのだ。
それにしても、「ブルックナーやマーラー」というように一括りにされるのは、ちょっと不思議だ。歳はブルックナーが36歳年上で、親子ほど違う。長大な交響曲を書いたということが共通していて、1970年代半ばころから段々と演奏会や録音の機会が増えてきたときに、なんとなく「セット」になったのかもしれない。
検索すると「マーラー ブルックナー 違い」というワードが候補になるのも、なんとなくわかる。妙ではあるが、並び称させれてしまうことが多いのだ。
ただ、それぞれの「ファン」には特徴がある。どちらも好きという人ももちろんいるが、マーラーが好きな人の中には、「ブルックナーは苦手」という人がいて、やはり単調に感じてしまうらしい。
一方で、ブルックナーを崇める人の中には、マーラーをあからさまに嫌う人がいる。マーラーの音楽は計算的設計されていて、その辺が「チャラチャラしている」と感じるらしい。
でも、この2人の想念には相通じるものがあるんじゃないか。最近そう感じるようになった。 >> 【音の話】踊るマーラーと、微笑むブルックナー。の続きを読む
読売日本交響楽団 特別演奏会 ≪究極のブルックナー≫
指揮:スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ
2016年1月21日 19:00 東京芸術劇場 大ホール
ブルックナー/交響曲第8番 ハ短調
=========================================================================
ブルックナーのいい演奏は、上質のスープのようなものだと思っている。長いこと時間をかけて作られた、ブイヨンや白湯をベースにした滋味あふれるおいしさを連想させる。
そのスコアを見ればすぐにわかるが、音符の絶対数が多いわけではないし、指示記号も詳細ではない。
だからこそ、スープの作り方が大切になる。地味だけれど、これを大切にする料理人が一流と言われるように、卓越した指揮者は曲に通底する「出汁」を丁寧につくる。それはオーケストラの音を、丁寧に積み重ねて、濁らない響きをつくり出し、かつ楽器のバランスに細心の注意を払うことになる。
その根気を忘れて、調味料に頼ったり、ましてや香辛料を加えてはいけない。丁寧に灰汁をとって、澄んだスープをつくる。
そうやって創り上げられたブルックナーは、決して大仰ではなく、悲痛でもなく、まして扇動などもない。淡々とした音楽が、静かな昂揚をもたらしてくれる。そんな演奏会だった。
この演奏会は、「究極のブルックナー」と銘打たれていたけど、あえていうなら「ありのままのブルックナー」というかんじだ。安易に「深い精神性」や「深遠な響き」と評されつつ、単に楽譜を無視して、大雑把なアンサンブルの演奏とは全く異なる。
また、高齢であるというだけで、ありがたみを感じる人には、物足りないかもしれない。
スクロヴァチェフスキは、いい意味で「普通の指揮者」であり、だからこそブルックナーの音楽が、自然に沁みてくる。
オーケストラは、弦楽器、特に中低弦の厚みがしっかりしていて、集中力が途切れない。全曲を通じて、もっとも印象的だったのは3楽章で、息の長いメロディが大きなうねりになって、いつまでも終わってほしくない、と願ってしまう。
スクロヴァチェフスキは、この曲を大きく3部でとらえているのではないか。1楽章と2楽章をアタッカで演奏するが、それによって、3楽章が曲の中核であり結節点であることが浮き彫りにされる。そしてフィナーレを一気に快速に振ることで、より対比が明快になるという狙いなのではないだろうか。
なお、最後に指揮者がタクトを下す前に、一部で拍手が起き、しばらくして止まり、ややおいて再度拍手となった。もう少し待って欲しかったとは思うが、そのフライングを止めた無言の空気圧がすごかったことが、この夜の緊張感を象徴しているようにも思う。