落語の小咄。与太郎に、こんな風に行って、ちょっとその場を離れた。
「ちょっと、俺のこの荷物見ておいてくれ」
で、帰ってみると荷物がない。
「ちゃんと、見てたのか?」
「うん。知らないオジサンが持ってた。ちゃんと見てたよ」
と、ここまでひどくはないけれど、会社勤めの中には「自分の仕事を限定したがる人」が多い。これは単に「余計なことをしたくない」ということもあるかもしれないが、「余計なことをすると叱られる」という面もある。
一方で、うまくいっている会社の話を聞くと、この辺りが違う。単に自分の仕事をやっているのではなく、最後まで「やり切る」人が多い。
製品の開発者がマーケティングなどの売り方まで考えていく。あるいは、営業が開発に提言して、最後まで伴走する。バイヤーが販促まで見通している。
ところが、往々にしてこれは領空侵犯となる。だからうまくいってる場合は、トップかそれに準じる人が、思い切ってキーマンに裁量権を与えて「やり切らせる」ことが多い。そうした企業では、オーナー経営だったり、そうでなくてもトップダウンが強いようだ。
対照的だが、やたらと「アサインメント(assignment)」という言葉を連発していたとある大手企業の部長がいた。「割り当て」ということだけど、何かにつけて、「それは君たちのアサインメントか?」と言う。つまり、っ込んだ提案に対して、やたらと警戒するのだ。
いまでもそういう組織は十分に多い。PDCAサイクルというのは正しいようだけど、下手をすると、何も考えないで「DoDoDo」で一生を終えてしまう人も結構出てくる。
一方で、「やり切る」というのは、どちらかと言えば”finish”に近いイメージだ。最後まで見届けて、さらに次を考える。
サクセスストーリーにはそういう人がいることも多いが、その次が難しい。そうしたスタープレイヤーを活かすシステムがなく、結局管理職にしてしまう。そもそも、組織を超えて動くような人を評価する仕組みが追い付いてないので、どこかに不満が出る。
往々にして大組織には適所がなく、より自由な動きのできるベンチャーや外資系、あるいは独立するケースも多いだろう。
「やる」と「やり切る」の違いは、いまの仕事や組織を捉える上で有効かもしれない。縦割りを超えて「やり切る」人がいる会社はまだ強い。みんなが自分のDOしかしていなければ、将来性は危うい。
自分の仕事について言えば、「最後までやり切る」ことに挑戦した方がいいし、それが許されない風土なら、会社の将来は危ういかもしれない。
忙しいようでいて、単なるバケツリレーをしているだけの職場もある。何一つやり切っていないのに「今日は幾つのバケツを運んだか」を偉そうに言っているような先輩がいるようなら、相当のアラームだろう。
「やる」と「やり切る」。この差は単純なようで相当深いと思ってる。