能を観に行く。
(2015年10月12日)

カテゴリ:見聞きした

能が気になっている。nou

きっかけは今年の8月15日に寒川神社で行われた薪能を友人夫妻に誘われて観たことだった。こうしたイベントでは経験があったのだが、能楽堂に足を運んだことはなかった。クラシック音楽や落語、たまには歌舞伎や芝居、宝塚歌劇など、ならせば月に週に一度くらいはそうしたライブに出かけている。

ただ、能や狂言は圏外だった。行くのは古典系が多いのだが、それでも能はなかなか険しいものがある。さっきから、何度も「脳波」と変換されて、やっと「能は」と覚えてくれた。そんなものだろう。もっとも、脳波にも関心はないが変換ソフトにおいても能は縁遠いものらしい。

ところが、ここに来て妙に気になる。9月の国立能楽堂の公演や、先日の観世流の定例会にふらりと出かけてみると、これが結構おもしろい。いや、おもしろいという言葉より、「興味深い」というか、つまり英語のintrestingのような感じか。

まだ、遠巻きにしながら「この世界に入ってみていいんだろうか?」という感覚なのである。ちなみに、狂言はなんの障壁もなく楽しい。これは、想像以上だった。

能の観客は、想像通りに高い。国立の公演はチケット代も求めやすく若い人も目につくが、それでも相当に高齢者が多い。ファンが高齢化しているのはたしかだろうが、そもそも能は、一定の歳にならないときついかもしれないとも思う。

まず、全体的にゆったりと進むのだが、このテンポ感は若いうちには単に苛立ちにしかならないだろう。それが、それなりに心地よくなるのは加齢のせいかもしれない。

謡や楽器にしても、いろいろと聴いて来てはじめて「なんだこれは」という驚きがある。80分から90分くらいかかる演目が多いけれど、これは楽曲としては相当な「大曲」だ。それが、譜面もなく奏されていくことは、知識としてはわかっていても、やはり驚く。そして、謡の声が抵抗なく沁みてくる。

もっとも、何を言っているかはほとんどわからないのだが、だいたいあらすじをネットで予習していけば、まあ何とかなる。国立能楽堂なら、前席に字幕もある。

ただし、能については、まず「これは何なんだ」ということがわかっていなかった。

その多くは、「夢幻能」という形式で、シテ(主人公)は霊的存在となって現れる。「そういうものか」と言われれば、そうですか、としか言いようがない。

でも、そのような世界観自体が受け手の年齢と関係しているのかもしれないと思う。

能は、その多くの演目が室町時代に成立して、それがほぼそのまま演じられているというのも驚きで、それはそれでいろいろ気になるのだが、その頃はこのような「霊」が身近だったのではないだろうか。シェークスピアの芝居など、西洋でも霊は結構気軽に顔を出す。

寿命が短い時代は、身近に亡くなる人も多く「霊との対話」も、ある意味日常的な感覚だったのだろう。

それが、現代になると死が近しいものではなく、むしろ覆い隠される。そのような時代において、能の世界観に分け入るには一定の年齢になってからの方がいいのかな、とも思う。

能にまつわる入門書は、なかなかピンと来るものが見当たらないのだが安田登さんのという能楽師の方が書かれた「異界を旅する能」は、今のところ大当たりだった。これ自体は能を巡るエッセイだが、入門書としても読みやすいと思う。

さて、能と狂言、自分はどこまで嵌っていくのか、それともさっさと飽きるのか。ちょっと怖いところもあるが、なかなかに楽しみである。