[読んだ本]アンドレ・ジイド著 川口篤(訳)『狭き門』岩波文庫
世間的に夏休みは明けたけれど、もう少し休み気分な感じで本の話を続けておこうと思う。
8月初旬の十日ほどの休みは、本を読みながらダラダラ過ごしていてメインは「プロ倫」だったんだけど、前半で無事攻略したので休暇先で古本屋に行った。
そこは結構ユニークで、福永武彦関連の珍しい本もあり批評関連を眺めていたら、氏の『草の花』と、ジイドの『狭き門』の関連に言及している本に出会った。『狭き門』は未読だったので、その本屋を探したところ岩波文庫を置いていたので、さっそく買って読んだ。
なんか、題からしていかめしそうだが、2時間あまりで読んでしまった。そのくらい、ストーリー構成は直線的だ。
最近の岩波だとごていねい表紙にあらすじが書いてあって、しかも「ネタバレ」である。だから、先に書いてしまうけど要約すると話自体はあっけない。
十代半ばの男性のジェロームが、2つ年上の従姉アリスに恋をして将来をともにしたいと思う。しかし「彼女は愛の行為を焦れつつも、神の国を求めるがゆえに、彼の求愛を拒み続けて苦悩のうちに死んでゆく…」。
ちなみに上記の「」内は岩波の表紙に書いてある。なんか、どうかと思いません?
しかし、「プロ倫」の時もそうだったけど、キリスト教の信仰が決して一般的ではない日本で、この小説への共鳴は本当にどこまであるのだろうか。と、遠回しに書いたけど、お話としては、相当つまらない、というかジェロームを拒むアリスの心情に共鳴できなければ、この小説はどうしたって「なんだそれ?」ということになる。
小説の最後の方で、亡くなった後に彼女の日記が明らかになるのだが、信心深い彼女のこんな葛藤が記される。
「二人のうち、どちらかが徳に達しなければならない。卑怯未練な私の心が、愛に打ち克つことはとても覚束なく思われますから、神様、せめてあの人が私を愛さなくなるようにあの人を諭す力をお授け下さいまし。」
さあ、関心は湧いただろうか?そしてこの題名は、こうした心情と密接にかかわる。きっかけは、冒頭近くで二人が教会に行った時に、牧師が聖書の「狭き門」に言及したところが、その後への布石となる。
この「狭き門」という言葉は、東大や宝塚音楽学校のような“難関”の比喩に使われるが、全然ちがう。本の中で二人が礼拝に行く場面で引用されるマタイ伝17章3節は以下のようである。(本書の訳による)
「力を尽くして狭き門より入れ。滅にいたる門は大きくその路は広く、之より入る者多し。生命(いのち)にいたる門は狭くその路は細く、之を見出すもの少なし。」
敢えて、狭き門を選ぶことの意味をこの本は問いかけ続けている。
とまとめてみたが、「これ本当に名作なのか」と突っ込んでいる自分がいるのも事実なのだった。
ちなみに、彼らの葛藤や禁欲性に何か引っかかるものがあるなぁ、と感じたら、解説によれば、それはジイド自身が、プロテスタントいわゆる「ユグノー」の母との間に強い葛藤を抱えていたこととも関係があるようで、なぜか「プロ倫」の問題提起にもつながっていくのであった。このあたりは、別の意味で興味深い。