いろいろな本を、それなりに読んできたと思ってはいるけれど、実際には相当の「名作」を読みそこなってきたこともたしかだと思う。
いっぽうで、そうした名作は「若い時に読むべきもの」という先入観があって、30歳を越した頃から「読み時を逸したのかな」という思いが強まり、そのままになってしまった本も多い。殊に、小説はそうだ。
福永武彦もそんな作家のひとりだった。いままでなぜ読まなかったんだろう?と思うが、理由は自分もわからない。縁がなかったのだろう。
この五月の連休に東京を離れて、とはいえあちこち回るような旅をするつもりもなく、たまたま入った古本屋で「忘却の河」と出会った。
『私がこれを書くのは私がこの部屋にいるからであり、ここにいて私が何かを発見したからである。その発見したものが何であるか、私の過去であるか、私の生き方であるか、私の運命であるか、それは私には分からない。』
この冒頭を読んだときには、純文学から遠ざかり気味だった自分には、少々の手ごわさを感じた。
半日で読んだ。そして、本に「読み時」などないのだと思った。
昭和39年、つまり自分が生まれた年に刊行された小説だが、50歳を超えて主人公の歳に近づいている。登場人物の、さまざまな思いが想像以上に自分の心の中に入ってくる。
本を読んでいると、乾いた砂に水が浸み込むような心地よさを感じることがある。一方で、それは恐ろしいことでもある。それは、自分の心が何か異物に侵されるような感覚であって、その微妙なせめぎあいがあある。
自分のまったく経験していない世界でありながら、なぜか同調してしまい、その一方でどこかに「分かりきりたくない」という拒絶が残る。
久々の体験だったが、それが文学を読むということなのだろう。
裏表紙のあらすじにはこうある。
『過去の事件に深くとらわれる中年男、彼の長女、次女、病床にある妻、若い男、それぞれの独白。愛の挫折とその不在に悩み、孤独な魂を抱えて救いを希求する彼らの葛藤を描いて「草の花」とともに読み継がれてきた傑作長編。』
たしかに、そういう話なのだ。明るくはない。そして、僕が読み終わって感じたことはとても単純だった。
あ、生きることにはやはり意味があるんだな。
社会に出てから四半世紀も過ぎると、仕事も私生活も慣性が強まって、自分の気持ちを確認する機会も薄れてくる。そういう年代だからこそ、そうした単純なことを自ら確認しなくてはいけない。
小説というのは、そういう時の糧になる。いまさら何を言うか、と思う方もいるだろうが、正直最近の自分はその程度にしか、心を働かせていなかったようだ。
この小説は、構成にミステリアスなところもあり、それがまた読む愉しみを高めてくれる。久しぶりに人に薦めたくなる一冊だった。