子どもの頃から本を読むのが好きだったが、30歳を過ぎてからマーケティングや心理学の専門書を読む必要に迫られ、40で会社を辞めてからはいわゆるビジネス書を読む必要が出てくる。
ただし、それは必要な栄養をサプリメントで補うようなところがあって、やはり小説を読む楽しみは別格だ。
小説といっても、いろいろなカテゴリーがあるけれど、歳を重ねると読み方が変わる。というか、同じテキストを読んでもまったく異なる発見や感慨がある。ことに歴史小説は、以前にまして面白く読める。
「歳食うと歴史小説が好きになる」
これは、それなりの必然があるように思えてきた。最近では宮城谷昌光の古代中国を舞台にしたシリーズや、池波正太郎の真田太平記、さらに佐藤賢一のフランス革命と読み続けている。ちょうどルイ16世がヴァレンヌで引っかかったあたりだ。
歴史小説は、もちろん若い人だって女性だって読むけどオジサンが多いと思う。調べてみると、こんなデータもあって、想像通りだった。
で、自分が50歳を過ぎて、その理由が何となくわかるようになってきた。
まず、歴史小説の登場人物の行動が、いちいち「思い当たる」のだ。真田昌幸の振る舞いを読み、「ああ、そういえば」ととある現実の人を思い出す。ロベスピエールの理屈っぽい台詞から、また別の人を思い起こす。
歴史の流れに身を委ねているようで、「ああ、いるいるこんな奴」と、実際の経験に当てはめて読むというのは、相当野暮だとは承知している。しかも思い起こすのは、知り合いの会社員であることも多い。歴史上の人物を、現代のビジネスに重ねるのだから、相当に野暮だ。
でも、おもしろい。人の意志と行動の原理は、きっと昔から変わっていない。しないのは切腹くらいだが、ビジネスの現場でも「詰め腹を切らされる」なんて表現がいまでもでてくる。まあ、そういう楽しみができるのは、齢を重ねたオジサンの特権でもあるわけだ。
で、もう一つ気づいたいのだけれど、50歳を過ぎると歴史小説のほとんどの登場人物が自分より年下になっているのだ。信長は50を前に本能寺で生涯を終えるし、ルイ16世は38歳で断頭台に消えた。
何というか、子どもの頃は仰ぎ見る存在だった歴史上の人物がかわいく見えてくる。「フフフ、幸村も若いな」とか思いながら読んでしまう。そうなると、若い時のような感情移入よりも、歴史全体が見えてくる。
ああ、自分は既に長生きしてるかもしれない。そんなことを思いつつ小説を読むのも、また楽しい。
それで気づいたんだけど、「三国志」はそういう意味で歴史小説とは異なる気もする。出てくる登場人物が凄すぎて、全然「思い当たる」人がいない。ゲームとの相性がいいのもなんとなく頷けてしまうのだ。
ちなみに、宮城谷作品で一番好きなのは「晏子」。柔らかい独特の味わいがあって、絵が浮かぶような描写で一気に読める。