桜が散っていく。
今年は、咲き初めの頃にそれなりに時間があり好天も続いたので、あちらこちらを散歩しながら花を満喫した。都心では外国人も多かったらしいけど、桜の花というのは誰が見ても、美しいものなんだろう。
ただ、自分のことを振り返ると、子どもの頃には、そんなに楽しみなものでもなかった。
花はきれいではあるが、心待ちにしたわけではない。花を見て、単に「美しい」と思うだけでなく、「いとおしい」「うれしい」、あるいは「せつない」と感じるのは何十回も季節が巡るのをかさねて、ある時に感じられるようなものかもしれない。
桜が咲いた時の気持ちの昂ぶりを感じるようになった頃から、夏の花火への関心が薄れた気がする。もっとも、これは人にもよるのだろうけど。
いずれにせよ、僕たちは桜を見るのではなく、そこにある記憶を掘り起しながら、将来へと思いを馳せる。春を喜ぶのは、そこに至るまでの冬を共有しているからだとも感じる。
そういえば、ストラヴィンスキーの「春の祭典」の迫力は、日本の春とは遠いなあと思っていたら、とある人に「ロシアの春」というのは、想像以上にメリメリ、バキバキとやってくると聞いた。
本当かな、と思っていたけれど、ある年の3月に軽井沢に滞在していた時に驚いたことある。まだ氷に閉ざされていたのだが、ある暖かい一日にすべてが溶けてしまったのだ。
ただし、その日は木から雪の塊が落ちて、屋根を氷が滑り、夜中まで大音響だった。「春の祭典」を実感した一夜だったことを覚えてる。
さあ、今週は仕事をしなければ。