2015年04月アーカイブ

ポカリスエットのCMが目立つ。テレビで見て、一瞬惹かれた。音楽のWE WILL ROCK YOUはCMで幾度となく使われているけれど、ビジュアルのつくり込みもしっかりしている。なんといっても、久しぶりに「青春のポカリ」という王道に帰ってきたと思う。

と、書いたところでこれが相当に「年寄りの感慨」であることに気づく。

ポカリスエットは、僕が高校の発売された。まったく新しいカテゴリーの飲料だったのでよく覚えている。しかしこの飲み物も、自分たちの年代にとっては「熱中症予防」や、病中の「脱水予防」のためのものになっているのかもしれない。

そういうつもりで買ったことはないが、と書いて気づいたがそもそも最近はこうしたドリンクすら買っていない。
で、ふと気づいたんだけど、この広告は「命令形」で構成されている。しかも、大人から若者への命令だ。校長先生が歌い出し、「好きにやれよ」「世界を動かせ」と字幕が出て、最後も「潜在能力をひき出せ」という命令形だ。

当たり前だが、命令形は強い。ただし、企業が顧客に「命令」するというのは、よく考えると妙なところもある。 >> ポカリとか若者への命令形のCMが気になる。の続きを読む



結構ネットなどでは取り上げられたので、知ってる人も多いかもしれないけれど、信州大学の学長が入学式で、スマートフォンについて述べられた。「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」という部分が記事の見出しになったせいで、やや誤解を受ける面もあるのだけれど、全体としてどう話されたのかを確かめておきましょうか。(サイトを読む)

「自らで考えることにじっくり時間をかけること、そして時間的にも心理的にもゆったりとすること」を強調されているわけで、その文脈でスマートフォンに言及したわけだよね。

実際問題として、「スマホをやめろ」と迫ったわけでないでしょう。要は、一つのメディアに頼り切りになるな、ということだと思うし、それは妥当だと思うんだ。

で、ここで、ちょっと別の切り口でスマートフォンについて考えてみたいんだ。

それは端末の「絶対的な大きさ」ということです。実はどんなに科学が進んでも、人間という生物の大きさはそうそう変わりません。もちろん時代によって変化はあるけど。

だから自分の体より大きい動物は犬でも怖いし、逆にチワワなら大丈夫、と思いますよね。

メディアも同じで、結構絶対的な大きさからの影響はあるはずです。新聞は相当大きな紙です。同じサイズのパソコンモニターはそうそう使ってないでしょう。そもそも、他の紙メディアに比べても大きい。そこに、でかい見出しをつければインパクトはあります。

一方で、スマートフォンは掌で片手で使える。もちろん、それが狙いです。ちょっと大きいタブレットになると、もう難しい。電車で経っている時に使えばすぐにわかります。ただ、スマートフォンばかり使っていれば、その画面のサイズですべての情報を処理する癖がつきます。パソコンであれば、チャートや文章を全体的に俯瞰できるけれど、スマートフォンでは難しい。また、デジタルと紙の本でも特徴は違います。僕は小説は電子書籍で読みますが、学術書などは紙の方が使いやすいと思ってる。ハイライトや栞は電子書籍でも可能ですが、ページをガバッとめくっていろいろと参照するには紙の方が使いやすいですね。

だから、なんでもスマートフォンでOKか?ということにちょっと疑問を持ってほしいし、折角だからいろんなメディアを体験しながら、自分なりのスタイルを作っていくのも、これからの学生にとって必要なことだと思います。

僕は紙の新聞をやめて2年以上になりますが、たまに紙の新聞を読むと、妙に暴力的に感じます。見出しなどの絶対サイズが無用に大きいんですよ。手に取って読むのには、全く不合理です。大きさ自体に権威性がある。

一方で掌のスマートフォンからの情報から、そうは感じない。自分の掌に収まるものは「愛おしい」感じがすると思うし、親しい人からのメッセージであればそれも強まるでしょう。そういう意味で、あの小さな端末は、持ち主だけで完結する小さな世界です。
ただし、大学時代に大切なのは、先の言葉にもあったように「考えることにじっくりと時間をかける」ということでしょう。だとすれば、その際には何が必要で何が不要か。
自分にとって目を向ける世界はどこにあるか、この先はそれこそ自分たちで考えてみてください。(2015年4月7日青山学院大学の講義より)



sakura

桜が散っていく。

今年は、咲き初めの頃にそれなりに時間があり好天も続いたので、あちらこちらを散歩しながら花を満喫した。都心では外国人も多かったらしいけど、桜の花というのは誰が見ても、美しいものなんだろう。

ただ、自分のことを振り返ると、子どもの頃には、そんなに楽しみなものでもなかった。

花はきれいではあるが、心待ちにしたわけではない。花を見て、単に「美しい」と思うだけでなく、「いとおしい」「うれしい」、あるいは「せつない」と感じるのは何十回も季節が巡るのをかさねて、ある時に感じられるようなものかもしれない。

桜が咲いた時の気持ちの昂ぶりを感じるようになった頃から、夏の花火への関心が薄れた気がする。もっとも、これは人にもよるのだろうけど。

いずれにせよ、僕たちは桜を見るのではなく、そこにある記憶を掘り起しながら、将来へと思いを馳せる。春を喜ぶのは、そこに至るまでの冬を共有しているからだとも感じる。

そういえば、ストラヴィンスキーの「春の祭典」の迫力は、日本の春とは遠いなあと思っていたら、とある人に「ロシアの春」というのは、想像以上にメリメリ、バキバキとやってくると聞いた。

本当かな、と思っていたけれど、ある年の3月に軽井沢に滞在していた時に驚いたことある。まだ氷に閉ざされていたのだが、ある暖かい一日にすべてが溶けてしまったのだ。

ただし、その日は木から雪の塊が落ちて、屋根を氷が滑り、夜中まで大音響だった。「春の祭典」を実感した一夜だったことを覚えてる。

さあ、今週は仕事をしなければ。



バッハ・コレギウム・ジャパン 演奏会

指揮: 鈴木雅明

201543日 1830 分 東京オペラシティ コンサートホール

J.S.バッハ:マタイ受難曲BWV244

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はじめて、マタイを生演奏で聴いた。この曲は演奏機会が少ないうえに、季節的にも復活祭前におこなわれることが多く、それはまた日本の年度末にも重なり、ついつい行きそびれていた。

バッハ・コレギウム・ジャパン(BCJ)を聴くのも初めてなので、コンサートの感想というよりは、マタイという曲について感じたことを書いておこうと思った。

クラシックを聴くきっかけはいろいろだろうが、大概はオーケストラかピアノから入っていくことが多いと思う。そして、自ら楽器を演奏すると、その楽器がかかわる曲を聴く。僕もそうだが高校から大学までオーケストラにいれば、自分たちが演奏する曲を中心に聴くのでマーラーの交響曲はスコアまで持っていても、バッハのミサやカンタータはディスクすら持ってないという人もいる。というか、自分も最近までそうだった。

マタイは、最近自宅で聴くことが増えてきたのだが、始終テキストとつき合わせているわけではないので、何となく流れてしまう。これは、一度生を聴かない限り、もう一生の間を続けて流れ続けるように思い、ようやく聴けた。

「受難曲」という名前が重苦しい連想を誘うし、実際にキリストの死へ向かう内容だから、軽いわけではない。でも、全曲を聴き終わって感じたのは、薄明りのような希望だった。

バッハは、神を信じていた。それは、教科書で「信仰心が強かった」と百回読んでもわからない。でも、この曲は祈りが希望につらなることを自然に感じる。 >> 初めての「マタイ」を鈴木雅明=BCJで聴く。の続きを読む



4月になった。会社を離れて久しいけど、知っている学生が社会人になったりもするし、少しは気になる。以前は新入社員研修もやったし、その辺りの経験を本にも書いた。

いまでも、いろいろな会社で話を聞くけれど、新入社員を迎えた会社にとって「教えてもできない」ということで悩むところは意外と少ない。日本には、新卒一括採用の伝統があって「ゼロからできるようにする」ノウハウは相当に蓄積されている。

一方で、新入社員が「こんなことしかさせてもらえない」という不満を持つことは結構多い。「意欲的な学生を採用できた」、と思っている会社ほどそういう傾向が強いようだ。
意欲的である、ということはいろいろなことに関心を持ち、世の中の流れに敏感だ。同世代の中で、自分がどのくらいのポジションにいるのか?を考える。

会社が「1.2.3…」と順番に教育していくことが、とても遠回りに思えるようだ。ある程度しっかりした組織に入れば、それは当たり前なんだけど、なんかビジネスはもっとスピーディでズンズン進むものだと思っているらしい。

まあ、起業ストーリーとか、新規ビジネスとか、そういうお話が多いからね。

でも、仕事はまず「1つのこと」に集中しないといけない。それは、新入社員も社長も実は同じだと思う。 >> 新入社員も社長も、まず「1つのこと」から。の続きを読む