指揮: グスターボ・ドゥダメル
3月28日 18時 サントリーホール
マーラー:交響曲第6番 イ短調「悲劇的」
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マーラーの6番は、ベートーヴェンの「第九」に似たところがあるように思う。ということを言った人はいないと思うけど、僕にとってはそうなのだ。最初の三楽章が古典的に作られていて、終楽章が「破格」の構成になる。
その終楽章、特に最後の10分ほどで、それまでの積み重ねを台無しにするかのような、自己否定の音楽を表現できると、とんでもない演奏になることがある。
ただし、本質的には狂気の音楽ではないと思う。悲劇「的」という様式で書かれているが、決して絶望の音楽ではない。
そういう意味では、ドゥダメルの指揮は想像以上にマーラーのスコアをクッキリと浮き上がらせていて、余計なテンポの揺れはなく、無理なく無駄なく、すべての音がバランスよく響いてくる。
ロス・フィルは、弦は分厚く、管は華やかで、正直こんなに達者だとは思わなかった。いままで聞いた米国のオケの中でも、1,2を争うような印象だった。うまいというだけでなく、この長い曲をずっと「歌い続ける」実力があることに驚いた。
これだけのマーラーを、生演奏で聴けることはそうそうないと思う。
ただひとつ、自分にとって困ったのが、この曲を前回聴いたのが、アバドとルツェルン祝祭管弦楽団の来日公演だったことだった。
2006年、同じサントリーホールだったが、このときは終盤に至って、とてつもなく畳みかけるような、雪崩のような音楽になった。アバドが、あえて手綱を離すようにしてオケを鳴らしていったことで、アンサンブルが崩れそうで崩れないギリギリの壮絶な感じが、この曲の本質を炙りだしたように思えた。
終演後に、長い長い沈黙があったことも印象深い。
それに比べれば、ドゥダメルは最後まで手綱を離すことはない。というのは当たり前のことではあるのだけれど、マーラーの音楽はどこか壊れかけたような「ふり」をすることで、個性が出るようにも思う。同じ時代の大編成の曲でも、リヒャルト・シュトラウスは、最後まで立派に演奏しないと二流感が漂うんだけど、マーラーの音楽には結構「隙」がある。
圧倒的な演奏だっけれど、一日経ってみると、その隙のようなものが結構恋しくなってくるものだったりもする。そして、桜を見ていると、彼らはこういう儚さとは遠いところにいるのかな?とも思う。いや演奏って本当に奥深いなと適当にまとめる日曜の午後なのだった。