なぜ最近のCMには、桃太郎とか昔話が出てくるのだろう?
(2015年1月13日)

カテゴリ:マーケティング

auが年明けから、太郎尽くしだ。桃太郎、浦島太郎、金太郎が登場している。どこかに既視感があるなと思ったけど、桃太郎は昨年PEPSIで、浦島太郎は住友生命でそれぞれ出演実績がある。

で、気になるのは、なぜにこの太郎たち、というか昔話が結構CMに出てくるんだろうか?と。

彼らは現実の人たちではない。まあ、そういうCMはたくさんあるんだけれど、広告の役割は徹底して現実に関与することだ。CMがフィクションだろうと、「購買」という現実の行動のために、それは制作される。

だったら、起きうる現実をそのまま描くという発想も当然あるわけで、グーグルのAndroidやフェイスブックは、そうやってCMを作っている。そのあたりのことは、昨年こちらに「笑顔のコラージュ」と評して書いた。

でも、あのような無邪気な描写は、本当に受けいれられるのか。広告は「これはあなたのための情報だよ」と発信する。そして、世の中の多くが憧れる世界があれば、かつての成長期の日本なら「丘の上の白い家」でよかったかもしれない。

でも、それは難しい。「いかにもありそうな家庭」を描きたいなら、そこに「揺らぎ」を与える必要がある。言ってみれば「リアリティの揺らぎ」だ。

その手法で成功したのが、ソフトバンクだと思う。ごくごく普通の家庭でありながら、「お父さんが犬」という一点で、リアリティは揺らぐ。

「ああ、これは日本の家族向けのCMだな」とわかりつつ、「でも我が家のことじゃないよね」と安心できる。(実は似たようなものかもしれないが)そして、面白がっているうちに「お得ですよ」という、コアのメッセージはしっかり残る。

それは、普通の部屋なのに「真ん中にある柱がバナナできている」ような、シュールレアリズムの絵にも似ているようにも思う。いずれにせよ、10年以上前のドコモが「ケータイ家族物語」をオンエアしていた時代とは、そこが決定的に違う。

米国企業の無邪気な笑顔は、「多数が合意できる幸せ」がそれなりの多数によって合意されているから、成り立つ。ただ、日本では、そうした合意を探すことが相当難しくなっているのだろう。

「何かに立ち向かうヒーロー」を、“リアリティをもって”描こうとしたら、どうなるんだろう。現実に思い切って揺らぎを与えつつ、誰もが知っている世界ってなんだろう?そこで、昔話の主人公に登場願えばコミュニケーションのスピードが速い。勿体つけずに書けば「話は早い」ということか、と。

そこで、太郎たちが登場する。
人々が共通して描ける未来は希薄でも、共通した記憶は濃厚だ。昔話のCMは、想像力よりも記憶に働きかける。

それは、「想像の総和」よりも「記憶の総和」がどんどん増加していく日本を、また映しているのだと思う。