2014年06月アーカイブ

サッカーが厳しいことになっている。2試合を終えた日本代表だが、勝敗以上になんか「?」と思っている人も多いだろう。

あまり技術的なことはわからないんだけど、僕が気になっているのは、選手たちがよく口にする「自分たちのサッカー」という言葉だ。

初戦を落とした後に、長谷部が「自分たちのサッカーが表現できなかった」と言った時、ちょっと、違和感を感じた。フィギュアスケートの選手みたいだな、と。でも、他の選手も「自分たちのサッカー」という。ギリシャ戦の後にザッケローニ監督も「われわれのサッカーを部分的にはできたと思う」と言っているようだ。

一方で、この言葉に内田が違和感を持っていたという記事もあった。

で、僕が感じたのは、もしかしたら、日本チームは「自信」と「自我」をどこかで混同しているのかな?ということだ。

いや、いきなり理屈っぽくて申し訳ない。

スポーツのような勝負ごとにおいて「自信」を持たせることは必須だ。いまの日本代表においても、その点は成功しているのだろう。ただし、「自我」が肥大してしまうと問題が起きる。自分らしさにこだわったことで、負けることもある。

ビジネスでもそうだ。「自社らしさ」に拘泥して、競争に負ける企業はたくさんある。自信が高じて、自我が増長したパターンだ。

一方で自信を失った時に、自我が大切なこともある。ある人が、そりの合わない上司とぶつかって仕事を干されたとする。そういう時こそ「自分らしく生きればいいじゃないか」と、自我が支えるだろう。試験に落ちるとか、異性にふられるとか、同じこだ。とある勝負に負けても、人の一生はそれだけでは計れない。もっとも、自我を捨てても勝ちを取る人もいるだろう。

いずれにせよ1人の人間が、ずっと自信を持ち続けることは難しい。くじけた時こそ「自分らしさ」が支えになる。ただし、ワールドカップのように勝負自体が目的の世界で重要なことは、あくまでも「自信」を高い水準で維持することだろう。それが、どこかで自分らしさへのこだわりに転じて、その肥大化した自我が、そもそもの自信を押しつぶそうとしている。

それが、今の日本代表の状況なのではないか。次の一戦、「らしく」なくてもいいから、勝ちにいくゲームが見られれば嬉しい。健闘を祈っている。