サッカーが厳しいことになっている。2試合を終えた日本代表だが、勝敗以上になんか「?」と思っている人も多いだろう。
あまり技術的なことはわからないんだけど、僕が気になっているのは、選手たちがよく口にする「自分たちのサッカー」という言葉だ。
初戦を落とした後に、長谷部が「自分たちのサッカーが表現できなかった」と言った時、ちょっと、違和感を感じた。フィギュアスケートの選手みたいだな、と。でも、他の選手も「自分たちのサッカー」という。ギリシャ戦の後にザッケローニ監督も「われわれのサッカーを部分的にはできたと思う」と言っているようだ。
一方で、この言葉に内田が違和感を持っていたという記事もあった。
で、僕が感じたのは、もしかしたら、日本チームは「自信」と「自我」をどこかで混同しているのかな?ということだ。
いや、いきなり理屈っぽくて申し訳ない。
スポーツのような勝負ごとにおいて「自信」を持たせることは必須だ。いまの日本代表においても、その点は成功しているのだろう。ただし、「自我」が肥大してしまうと問題が起きる。自分らしさにこだわったことで、負けることもある。
ビジネスでもそうだ。「自社らしさ」に拘泥して、競争に負ける企業はたくさんある。自信が高じて、自我が増長したパターンだ。
一方で自信を失った時に、自我が大切なこともある。ある人が、そりの合わない上司とぶつかって仕事を干されたとする。そういう時こそ「自分らしく生きればいいじゃないか」と、自我が支えるだろう。試験に落ちるとか、異性にふられるとか、同じこだ。とある勝負に負けても、人の一生はそれだけでは計れない。もっとも、自我を捨てても勝ちを取る人もいるだろう。
いずれにせよ1人の人間が、ずっと自信を持ち続けることは難しい。くじけた時こそ「自分らしさ」が支えになる。ただし、ワールドカップのように勝負自体が目的の世界で重要なことは、あくまでも「自信」を高い水準で維持することだろう。それが、どこかで自分らしさへのこだわりに転じて、その肥大化した自我が、そもそもの自信を押しつぶそうとしている。
それが、今の日本代表の状況なのではないか。次の一戦、「らしく」なくてもいいから、勝ちにいくゲームが見られれば嬉しい。健闘を祈っている。
とある広告会社のクリエイターが、新人を預かるという話になって、一体何から教えようかというので、まあいろいろ話して「コピーから入ったら」ということで一致した。
まずは、キャッチコピーをたくさん書いてみる、というわけだ。
コピーライターの仕事って、大変に学びが多い。コピーを書くというのは、コピーライター以外の人でも、トレーニングとして有効だと思う。
コピーライターの仕事は、結構誤解されている面もあるかもしれないけれど、最大のメリットは「戦略と戦術を、両方考えられる」ことだと思う。
というか、最近つくづくそう思うようになった。
コピーで、まず考えることは「切り口」だ。つまり、「戦略=どこで戦うか」ということ。
この場合、商品に決定的なUSPがあれば、それを伝えるだけで足りる。「スプーン一杯で驚きの白さ」とか、携帯電話の「0円」とか。こうした切り口は、企業の戦略に寄り添っていく。スマホもいろいろ出てきたから「大画面でいくか」となれば、コピーも基本的には「画面の大きさ」が基本線だろう。
ところが、製品の差別化が困難になってくると、同じフィールドの中で「戦術=どう戦うか」ということになっていく。そうなると、コピーとしては“表現”が求められる。語尾や、言いまわし、あるいは会話にする…などいろいろ工夫する中で、買い手が「自分に近い」と感じるような言葉を考えていくわけだ。
こう書けば何となくお分かりかと思うが、戦略レベルで決定的に差別化できれば、コピーの役割は背景へと去っていく。相当シンプルになるはずだ。
ブログとかを生業にしている人は、ある程度極端な話をした方がいろいろと自身には都合いいんだろうな、と思うんだけれど、話をすり替えて煽っているようなのを読むと茶々を入れたくなる。
で、Chikirinという人が書いた「バランスなんて、とる必要ないです」という話。なんだか、食べ物の好き嫌いと働き方の話とかがゴッチャになっていて、まあ軽く書かれていることにいちいち言うのもどうかと思うけど、ホント若い人がこういうの鵜呑みにするから、書いておこうかなと思う。
書いてあるフレーズは、確かに魅力的だ。たとえば
(引用)そもそも何にせよ、「常にすべてをバランスよく手がけてます!」って人で、おもしろい人に会ったことがない。「この人すげえ! めっちゃおもしろい!!」って思う人は、たいてい大きくバランスが崩れてる。(引用ここまで)
ところが、「バランスが崩れてる」という人でも、その人の中では「バランスがとれている」のだ。ちょっとバランスが極端に見える人は、単に「世の多数派と異なる」だけで、自分なりの均衡がある。
そうでなければ、ただの「破綻した人」だ。
アーチストでも、「この人すげえ!」ような人はどこか極端だ。しかし、自分なりのバランスがあるから成立している。
ただ、闇雲にそういう人を目指すと、大抵は破綻する。それは、仕事でも何でもそう。世の中には、「いろんなことをそこそこやる」ということで、それが性に合ってる人もいる。もっともこういうネットの読者は、それに飽き足らない人が多く、それを知ってるからこういう煽りをするんだろうけどね。
バランスって、それぞれの人の中に固有のモノがあるわけ。それを崩して、極端なことしても気持ち悪くなっちゃうだけだと思うよ。
でも、そういうChikirinという人は、相当にバランス感覚のある人だと思う。
だって、世の中の多数派が「バランスが大事」ということを見越して、「バランスいりません」ということで、見事に自分の立ち位置を確保してるじゃない。
ま、そういうことです。わかりますよね。
フィラデルフィア管弦楽団 演奏会
指揮:ヤニック・ネゼ=セガン
2014年6月3日 サントリーホール
モーツァルト:交響曲第41番 ハ長調 K.551「ジュピター」
マーラー:交響曲第1番 ニ長調「巨人」
アンコール:J.S.バッハ/ストコフスキー:小フーガ ト短調
==================================================================
遂げられない切ない思い、限りなく広がる妄想、そして飽きることのない狂喜。マーラーの音楽、とりわけ1番のシンフォニーはそうしたロマン性がプンプンと漂う。
といえば聞こえはいいが、要は「中二病」だ。そこには、収拾のつかない想いのかけらがとり散らかって、でもマーラーには相当の楽才があったからまとめることができたのだろう。
そういうわけで、この曲はどこか恥ずかしい。でも、だからこそ臆面もなく思い入れたっぷりに歌ってほしいのだが、一方ではビシッと決めないと、単に恥ずかしい曲になってしまう。
ゼネ=セガンとフィラデルフィアの演奏は、たっぷり感においては相当に素晴らしい。これは指揮者の力量によるところだろう。一方でフィナーレなどは畳みかけて決まったけれど、危ういシーンも多かった。
昨年の、サロネン/フィルハーモニアに比べると、音楽の「中二らしさ」ではよかったけど、アンサンブルではちょっと気になるところもあるかな、という感じだ。
ことに、弦楽器がデリケートな場面になるといろいろ気になる。三楽章など、コントラバスは相当厳しかったし、その後静かなところになるとどこかおどおどしたアンサンブルになる。
ゼネ=セガンは、そうした弦楽器に対して実に丁寧に、時には煽るかのように朗々と歌わせる。また管楽器の主体性を大切にして、伸び伸びと吹かせる音づくりだ。そして、思い切ってテンポを揺らす時は相当に、大胆。すすり泣くような弦に、誇らしげなブラスなど、正しい中二病満開だ。
もちろん、褒めているのだ。
アンコールは、ストコフスキーが編曲したバッハの小フーガ。ゼネ=セガンの、この楽団への思い入れがよく伝わるいい選曲だったと思う。
一曲目のジュピターも結構アクセントのハッキリした演奏で、これはこれで面白いと思った。モーツアルトの他の曲で同じようにできるかはともかく。
いずれにせよ、ゼネ=セガンは機会があれば何度でも聞いてみたい。音楽をぐつぐつと煮立てることについては、相当な腕前だと思う。