少々前のブログだが、「サラリーマンが目先のベアより社会保障の抜本改革を要求すべき理由」という記事のことが気になっていた。内容は、的確だと思う。社会保険の企業負担の厳しさというのは既に相当なものだ。健康保険、厚生年金はもちろんだが、児童手当なども企業負担分がある。
個人負担の増加は話題になりやすいが、企業負担はどことなく他人事に感じやすい。しかし、企業負担は「人に払うカネ」であるから、結局は給与の抑制につながっていくわけだが、あまりメディアも取り上げない(日経は今春記事にしていた)が、重要な論点だと思う。
ただ僕が、この記事を読んで気になったのは、内容の主旨ではない。最初の方にある文だ。
「強欲な経営者でも資本家でもなくて、サラリーマンの目下最大の敵は高齢者ということになる。」
これ自体、あまり目新しい議論ではないかもしれない。高齢者が若者から搾取している、というような話はネット上ではよく目にする。
もちろん、財の移転という意味では正しいだろう。でも、僕はこういうフレーズに頷けない。こうした「割り切り」はネット上ではよく目にするけれど、いろいろと大事なことを捨て去っている気がするから。
もちろん、自分自身は「若者」ではない。ただし、僕の年代も、その上に比べれば年金受給開始は遅くなっているし、今後はさらに遅れるかもしれない。働いているのだから、もちろんそれなりの負担はしている。高齢者は「敵」なのかもしれない。
でも、こういうフレーズを見るたびに、僕は身近な高齢者を思い出す。自分の親も後期高齢者となり、「要支援」だ。祖母は先般百歳で他界したが、こうした制度の恩恵を受けていた。また血縁以外でも、疾患治療を続けている方もたくさんいる。
あらゆる人にとって高齢者は、身近な存在である。それが超高齢社会だ。一方で世代間格差を糾弾するのは容易だ。マクロで見れば、それが現実だからである。
ただし、人にとっての現実は多様だ。それぞれの世代の人に、リアルに存在している高齢者がいる時、その総体を「敵」とみなすことは少なくても僕には難しい。社会制度を論じる時に、身近なことを思い起こすのはそもそもおかしいかもしれないが、「割り切れなさ」があるからこそ、この問題は難しいのだ。
社会保障の改革は、誰にとっても「割り切れない」感情が出てくる。妥協と折り合いを重ねながら進めるしかない。スピードは必要だが、だからと言って「敵/味方」の二分法は、分裂を促すだけに思える。
マスメディアでは、こうしたザックリしたフレーズは少ない。それは「高齢者が文句を言う」からかもしれない。じゃあ、高齢者が見ていないネットメディアで「高齢者は敵」と言ってしまえば何か解決するのだろうか。溜飲が下がるかもしれないが、あまりに刹那的だ。
ネットメディアが真の議論の場になるには、「敵/味方」を断定するような「キャッチフレーズ探し」からまず抜け出した方がいいと思う。