最近、facebookを見ると誰かが亡くなっていた、ということが多い。
昨夜帰宅した時、アバドは世を去っていた。友人が写真に、R.I.P.と一言。ニュースサイトを見て、訃報を確認した。80歳だった。
アバドは、僕たちの世代にとっては「同時代感」のある作曲家だった。30も歳の離れた親世代に「同時代感」を感じるのは妙に思われるかもしれない。
ただし、クラシックとりわけ指揮者というのは、40そこそこで「新進気鋭」などと言われる世界で、80を過ぎてなおかつ現役の方もいる。つまり、自分たちがクラシックに触れて、オーケストラに参加した頃、まさに颯爽と楽壇を賑わせていたのがアバドだった。
カラヤンはおりしも没後25年で、享年もアバドとほぼ同じ。つなり、アバドが親世代であり、カラヤンは祖父の世代になる。
多くの録音があり、また来日も多かった。ただし、音楽に触れた頃のディスク、特にシカゴ響を振ったマーラーの録音が一番思い出深いし、演奏としても素晴らしいと思う。大学で一緒にマーラーを演奏した同世代に友人たちが、今朝のfacebookで同じことを書いていた。
当時輸入盤のレコードは、ちょっと大げさだが二枚組の箱に入っていて、恭しく針を落とした記憶がある。
もっとも、彼のマーラーに”狂気”が足りないとか、退屈だという評も見かける。ただ、実際に演奏してスコアを見ればわかるが、マーラーは極めて精緻な書き込みをしていて、それを”狂っているかのように”演奏するのが、一時の流行だったということではないだろうか。そして、マーラーの音楽を「明らかにしてしまった」のがアバドだった。
それを「退屈」と評するなら、それは、その人自身が退屈な人なのだ。仕方ない。
ただ、2006年のルツェルン祝祭管弦楽団との来日で聴いたマーラーの6番は、凄絶な演奏だった。終わった後の長い長い沈黙が、演奏以上に記憶に残る。終楽章に向かって、どこかタガの外れかけたような、ある意味崩壊寸前の音の洪水が、ギリギリのところでまとまって、一つの塊りになっていく。かけがえのない体験だった。
私が学生時代にお世話になり、現在もお付き合いのある岩下眞好先生が、かつてアバドの演奏を評して「それは常に”中間報告”である」という主旨のことを以前書かれていた記憶がある。
「これで決まり」ということは決してなく、常に「本当の音楽」を求めていたということだろう。
年明け早々の、本当に残念な訃報だった。
深く、冥福を祈る。