「電博」の終わり。
(2012年7月18日)

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コメント(1)

電通が思い切ったことをやった。4000億を投じてのM&Aの目的などについては、いろいろと書かれている通りだろうし、あえては書かないし、将来について言えば全く分からない。ただし、この買収のカギを握るのは人材マネジメントに尽きるのだろうと思っている。
その一方で、ふと思ったのは「電博」という言葉は本当に無意味になるのだろうな、ということだった。
電通は単体で博報堂の2倍以上の売上げがあるが、博報堂はNo2だから得をしてきた面がある。代表的な代理店は「電博」というわけで、ドラマに出てくると「電王堂」とかになるのだ。
何となく「電通や博報堂」みたいなセットになっているので、それなりに競っているように見える。ただ、トラック競技で言うと最後の直線でそれなりの戦いになっているけれど、片方の選手は実は2倍の距離を走っているようなものなのだ。その上で、個々のプランニングの品質では競り合う局面もそれなりにあって、就職希望の学生などは時折錯覚を起こしたりするようだけど。
しかし、今回のM&Aで電通は競技場の外へ走り出してしまった。企業体としては、過去とはまったく異なる競争の世界へ突入したと思っている。


いつからか、はハッキリ分からないけれど「電博」的な見え方というのは、1980年前後に始まっていると思う。ちょうど博報堂が生活総合研究所をつくり「マーケティング・エンジニアリング」と標榜して、何となくだが差別化を始めたことがきっかけではないだろうか。
そこから30年程が経って、「電博」というフレームはもう終わったと言えるだろう。
そして、この「30年」という数字は俗に言われる企業の栄枯盛衰のライフサイクルとも一致する。
もっともこの「企業30年寿命説」という数字は、いろんな側面があって(もちろん賛否もあるが)、多くはイノベーションの影響が強い。ただ僕は人のライフサイクルも関係していると思う。特に広告のような業界ではそうだ。
大体、30歳くらいで会社の中堅となったコア層がちょうど30年で還暦。これが、企業のライフサイクルの波とちょうど一致する。人材視点で分析すると、いまの博報堂はちょうどこのサイクルの端境期にいるのかもしれない。
「電博」じゃない時代に、じゃあどうするべきかというのは、すでに半分答えが出ていると思う。今の30歳前後が次のライフサイクルを創出できるか。それを組織として「思い切った答え」にできるのか。
いつまで今のトラックをグルグル回っているのかを考えなくてはいけないのだろう。電通の決断は、博報堂にとっても十分な機会のはずなのだ。本来は。



「電博」の終わり。」への1件のフィードバック

  1. 笑鬼 より:

    トラックでの例えは、その通り。マスコミは、竜虎とか、虚人阪神伝統の一戦と、東西を枠にしていってきた。現実は、どうだろう。智力で戦って来た落合の時代を終えさせられると、財力でチームを強化した虚人との差は、歴然。これも、三週遅れ。僕は、名古屋企業との隔靴掻痒で、口にしたのが「あなた方は荒らしが来ることを雲の流れで見ていない。」「あなた方は、鈴鹿のレースでいう、一週遅れなのに、パドックの連中も観衆社員も見分けが付かない」と言って来た。相手は必ず、どこの企業もこういった:「まあ、いいがね、わしら、案外と、うまいこと、やっとるもんねえ」電博にも共通していた。並び称されることの恥ずかしさを、殊の外、最近、猛烈に感じています。