僕の十年以上年配の方と話していると「鶏肉が苦手」という方が稀にいる。どうやら、幼い頃に、首を刎ねるのを見たことが強烈な印象になっているという。僕なんかにとっては、全く別世界という感覚だった。
最近話題になった「普通の女子が鴨を絞めて、お雑煮にしたお話」というのを読んで、そんなことを思い出した。これは、自分には出来ない。言い訳はいろいろあるが、まずできないと思う。
彼女のことは知らなかったのだが、こんなインタビュー記事が紹介されていて、それも面白かった。そして、こんな言葉が印象に残った。
「そうなんですよ。私はお金が中心の世界からそろそろ降りたいなと。もうレースにはついていけないんですよ。見えてるゴールがあまりにも残念すぎるというか、全く私が望んでないものなんですよね。私はもっと等身大で人間らしく生きたいし。」
いろんなことを考えさせられるインタビューだった。
それは、時代の気分だろうし、似たような感覚になる人は多いようだ。しかし、その一方で、僕はまだ「お金が中心の世界」から降りることはできない。それは、お金が必要なことはもちろんだが、降りるほど強くはないからだ。
実は、お金というのは「弱者の味方」という面もあると思っている。
それは妙に思われるかもしれない。お金は強者に集まりやすいからだ。しかし、弱者にとってはお金こそが命綱だ。なぜなら「自分でできないこと」を、誰かにしてもらえるからである。
自分で鶏は絞められないけど、コンビニに行けば唐揚げが買える。その時に払うお金は、他の人に「代行してもらってる」ことに支払われる。つまりお金があることによって、人々は「自分のできること」を見つけて頑張る一方で、できないことは他の人にしてもらうという仕組みができた。
お金のありがたみは歳をとると分かる。若いうちは、終電を気にして、それに乗れなければ朝まで外にいたり歩いて帰ったりもした。しかし、この歳になれば、夜半にはタクシーに乗りたいことも増える。自分の力が落ちれば、「代行してもらうための糧」としてお金は重要になってくる。それは自分が着実に弱者になっているからだ。
「お金が中心の世界」というのは、たしかに人の醜い面をあらわにする。しかし、その一方で、あまりにもお金を毛嫌いするような風潮も、また疑問を感じている。
何だか中途半端な人ほど「お金を欲しがる人を軽蔑する」という感じがしている。でも、お金というのは頑張った証だ。そして、「お金が欲しい」というモチベーションで、いろんなモノが発明されて、それが多くの人の役に立つこともある。お金をいじめたり、お金を求める欲求を邪悪なものと決めつけてはいけない。
特に若い世代の人が「お金が欲しい」ということを後ろめたく思ってしまう風潮を広めたくはない。それによって、いろんな動機や機会、そしてエネルギーが失われてしまうからだ。
「お金を儲けませんか」という誘惑に怪しいものは多いが、「お金にこだわるのはバカだ」という囁きは正論のように見えるだけに、副作用が怖い。ただし、先の女性のように潔い人は決してそんなことを言ってないし、僕は本当にすごいと思う。ただしそれを半端な理解で、覚悟も無しに流布している人の言葉に幻惑されないでほしい。若い人、そしてこれから就活をする人は特に。
「お金が欲しい」と広言することもないだろうけれど、そういう欲求を恥ずかしいと思うことはない。
お金は大事なんだ。それについては、アヒルの言ってたとおりなのだから。
”夢”を実現するにもお金って必要ですしね。例えば「宇宙に飛び出したい・他の惑星にどんな生物がいるのか知りたい」そんな少年が夢を叶えるのに一番必要なのは、熱意と同じくらいにたくさんのお金だと思います。 誰かが稼げば誰かの夢が叶う可能性が高まるんじゃないか、と冷静に考えれば短絡的に「お金稼ぎは悪」みたいな考えが薄まるのに、とよく考えます。「人生に必要なのは、愛と勇気と少しのお金」というチャップリンの言葉を思い出しました。
コメントありがとうございます。
そうなんですよ。お金が悪いんじゃなくて「お金持ちの悪人」がごく少数なのに大変目立つことが問題なのかもしれませんね。
上のインタビューしてるものです。アクセスログから辿り着きました。畠山さんも「今回の原発の件を受けて、自分たちだけがうまくいっても駄目なんだということを痛感しました。」って言ってましたが、例えば彼女の関心がお金じゃなくて政治的なことに振れたり、また振り戻されてお金について考えたりするのかなあと思います。「教育として教わるあまりにも当たり前の概念」って社会人になってから結構それぞれが再定義しなければいけないものだと思っていて、「お金をいじめてはいけない」というのもとても府に落ちる話でした。インタビューから半年経ってこういう記事に出会えてよかったです。ありがとうございました!