僕が会社を辞める前に考えたのは、「最低でも幾ら収入が必要か」ということだった。そこで、自分にとっての「ミニマム・ライフ」を設定することにした。そうなると、必然的に基本方針が決まり、まず心がけたのは「コストの最小化」だった。
幸いネットの時代だったので、オフィスを借りたり秘書を雇わなくても「店構え」を作ることはできる。だからホームページはそれなりに手をかけた。
一方で自宅は広くなかったので、客が来ることは想定できなかった。
今でもあるのだが、入社3年目の頃に買った小さな引き出し型のラックを使い、書き物ができるスペースだけこじ開けた。そして、打ち合わせはすべて外にすることにして、小さなPCとリュックを買い求めた。
ミーティングは同じ日に集中させて、空いた時間はカフェで原稿などを書く。クライアントの近くにある店には詳しくなって、どこにウォシュレットがあるかも把握した。
その後、越したので仕事スペースは改善されたが、今でもその基本スタイルは変わりない。
リュックもPCも同じものだ。デジカメやポインタをしまう場所も決まっている。
それは、「ノマド」的なのかもしれない。だが、その当時にそんな言葉はなかった。そして最近の議論を聞いていると、何か違う気がする。それは仕事のスタイルではなく、心持ちの問題なのだと思う。
僕は、このスタイルが好きだけれど、だからと言って他よりも優れているとは思わない。それは選択肢の一つである。そして、していないことも多い。たとえば、人を雇って、その人の生計に寄与すること。だから事業を拡大して、人を雇用している人は本当にすごいと思う。
自分のやり方が恥ずかしいとは感じてないが、威張るほどのことでもない。ましてや、これが次代のワークスタイルだとのたまう気もない。それだけの話である。
もちろん、独立希望だったり、実際フリーランスになった若い人と話すこともある。そういう時、僕は起業資金もなくリスクを抑えたかった「弱者の戦略」という視点で、経験を伝える。しかし、それを最上と語ったことはない。
一方で既存の働き方を過度に「古い」と決めつけなければ自己を保てない人は、どんなスタイルだろうと懸命に働いている他者への敬意が薄い。
それがノマドを巡る一部の言説への違和感につながっている。
もっとも実際に新しい働き方を模索している若い人の殆どは謙虚であって、彼らを持ち上げることで小銭を稼ごうとしている一部の大人への違和感が強いのかもしれないが。