先日、居酒屋チェーンの社員が過労死した裁判の後で「日本のブラック企業の進化」が話題になった。話題になったこちらのブログでは日本社会の同調圧力に注目していたけれど、僕はちょっと別の面からこのことが気になっている。
それは、日本人とりわけ若い人の「感謝欲」が過剰になっているのでは?ということだ。
人間の動機にはいろいろな分類があるんだけど、僕は就転職の相談などを受ける時に、特に2つの「欲」を気にする。それは「賞賛欲」と「感謝欲」だ。
前者はわかりやすいだろう。人から「すごい!」と言われたい欲求だ。これは「目立ちたがり屋」であり、人から喝采を浴びることを望む。
一方で「感謝欲」というのは、人から「ありがとう」と言われたいという欲求だ。つまり人のために尽くす人が多く、まあ一般的は「いい人」である。ただ、キャリア研究ではこれを「感謝欲」と捉える。意地悪なようだが、結局人に尽くすというのも自己の欲求を満たしている、と考えるのである。
さて、この「感謝欲」が強い人は、使う方から見れば便利だ。起業したオーナー社長などは「賞賛欲」に「影響欲」が加わったタイプが殆どだと思うが、これがとりわけサービス産業だとどうなるか。
そう「感謝欲」の強い社員は重宝なのである。
そして感謝欲の強い人は、「ありがとう」といわれると、モチベーションが上がる。そして、さらに頑張る。接客業もそうだが、福祉や介護、あるいは保育などの現場でもよく見られる。「お客からの笑顔で疲れが吹っ飛ぶ」という人もいる。
しかし、それが危険なのだ。
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昨年、父の余命が半年とわかってから、いろいろと大変なことはあったが、一番予想外だったのは、人に話す機会が想像以上に少なかったことである。
そして、それは自分の働き方とも関係していたのだった。
大体、夜に人と食事するのは週2回程度にしている。健康管理上の問題もあるが、そのくらいが、自分にとっては「ちょうどいい」のだ。会う相手はさまざまだが、大体二週間くらい前にはアポを取ると思う。
つまり、あらかじめ「何時会いましょう」と決めるわけだ。
ところが、このアポイントを決める気が失せてしまった。会いたい人はいるのだが、会えばそういう話をしたくなるだろう。ところが、わざわざ約束をとって重い話をするのは気が引ける。
結局、同年代以上の友人で、既に同様の経験をした人と話すことが多かった。
そして、会社員時代のことを思い出すと、みな昼飯の時なんかに何気なくそんな話をしていた気がする。
「いや、実はオヤジがですね…」
と、病気に関する打ち明け話を誰かがする。そうすると、先輩が声をかける。
「そっか…うちの時はな」と話を聞かせてくれて、「まあいざという時は、まかせておけ」とか「おふくろさんの近くにいてやれよ」という会話になっていく。
そんな風景を若い頃に見ていて、「いつかこういう日が来るのかな」と思っていた。そして、実際にその日が来た時に、僕は会社にいなかった。
フリーランスになって、というよりなる前から気になっていたのは健康のことだった。もちろ大病も怖いが、「風邪で仕事に穴をあける」みたいなことだって、会社員より遥かに気を使うことになる。
仮に一日研修の講師をおこなう日に、インフルエンザになったらどうなるか。そのために全国各地から来ている人もいるのに「自習」とかで済むわけがない。想像するだけでゾッとして体に悪そうなので、想像もしないことにした。
そういうわけで、手洗いとうがい、それに睡眠という基本は風邪予防の基本として有効であることは、とりあえずこの10年くらいの経験から推奨したいと思う。
ところが、どうにも避けがたいことがあって、それは家族に不幸があった時のことである。これこそ、あまり想像したくもないわけだが、昨年の春先に父の余命が半年あまりであることを医師から告げられて、にわかに現実問題となってしまった。
こういう時は冷静さを欠くので、とりあえず非現実的なケースしか思い出さない。たしかバーンスタインが奥さんを亡くした時に日本公演をキャンセルしたことがあったなあ、とか。
だから、どうなるというのやら。
現在のクライアントに、あらかじめ挨拶をしておくことはしたが、「万が一の場合は」を前提にして話すわけにもいかない。知り合いに、こうしたケースでどうしたかを尋ねたが、これといった解があるわけでもなかった。
一人で仕事をしている人は、意地がある。それは、会社組織への対抗心のようなものかもしれない。それは、フリーの人でなくても想像できるのではないだろうか。
そして、もう一つが「屈折」だ。これは、ちょっと説明を要するかもしれない。
フリーランス、特に企業を辞めた者は、一方で企業のことを気にしている。当然、古巣のことが気にかかることもある。
そして、その企業の業績が良くても悪くても、何だか気になったりしているのだ。多くのフリーランスはそんなことを敢えて口にはしない。それはそうだろう、あまりにカッコ悪いからだ。
もし自分が独立した後に思うように仕事がなく、一方で古巣の会社が好業績だったりする。その場合、果たして自分は冷静でいられたかというと、そんなことはなかっただろう。そして、自分の仕事がうまくいっていて、かつていた会社が不調だったりすると、それはそれで気になったりする。
何か、大変にややこしいのだけれど、これは実際に会社を辞めた人同士で話していると感じることでもある。
時には、この屈折をものすごいエネルギーに変えてしまう人がいる。勤めていた会社の内幕を暴露するような本を書いちゃったり、いつまでも辞めた会社や業界の悪口を言い続ける人だ。
一方で、自分の中の屈折をちゃんと向き合えない人がいる。そういう人は、とりあえず会社組織というものを否定してみたがる。みたがるんだけど、何となく根拠がないので空回りをするのである。
別にフリーにならなくても、転職をした人と話すと、時折似たような感覚を持っていることに気づく。そして、あっけらかんとしているよりも、適度に屈折している人が、何となくカッコいい気もするのである。
まあ、それは自分の思い込みかもしれない。
そして、そうした屈折とは無縁に見える会社員を見て、ときおり「それもいいよな」と思ったりしながら、「いや自分は正しかった」と自答を続けるのが、まあフリーの正しい屈折だったりするのである。
僕が会社を辞める前に考えたのは、「最低でも幾ら収入が必要か」ということだった。そこで、自分にとっての「ミニマム・ライフ」を設定することにした。そうなると、必然的に基本方針が決まり、まず心がけたのは「コストの最小化」だった。
幸いネットの時代だったので、オフィスを借りたり秘書を雇わなくても「店構え」を作ることはできる。だからホームページはそれなりに手をかけた。
一方で自宅は広くなかったので、客が来ることは想定できなかった。
今でもあるのだが、入社3年目の頃に買った小さな引き出し型のラックを使い、書き物ができるスペースだけこじ開けた。そして、打ち合わせはすべて外にすることにして、小さなPCとリュックを買い求めた。
ミーティングは同じ日に集中させて、空いた時間はカフェで原稿などを書く。クライアントの近くにある店には詳しくなって、どこにウォシュレットがあるかも把握した。
その後、越したので仕事スペースは改善されたが、今でもその基本スタイルは変わりない。
リュックもPCも同じものだ。デジカメやポインタをしまう場所も決まっている。
それは、「ノマド」的なのかもしれない。だが、その当時にそんな言葉はなかった。そして最近の議論を聞いていると、何か違う気がする。それは仕事のスタイルではなく、心持ちの問題なのだと思う。