高校の同期会があった。都立富士高校を1982年に卒業した者たちが、30年ぶりに再会した。この間、全学年の会はなかったので初めてのことだ。
仲のいい連中とはよく会っていたのだが30年ぶりの者も多い。160人を超える、つまり4割以上の出席というのはかなり高率だったと思う。愛着がある学校なのだ。
僕のいた3年のクラスは、なぜか本を出している者が集まっている。こちらのブログに書いている内藤忍君や、当日は不参加だった作家の有吉玉青さんも同じクラスだった。
富士高校から大学、そして会社でも多くの出会いに恵まれたが、高校というのはいわば「本籍地」のようなものである。同じように感じていた者も多かったのだろう。自分自身の根っこを形成しているのが、富士高校時代の経験にある。
もっとも、15歳から18歳までを過ごすのだから、高校というのはそういう要素を持っていることはたしかだ。陳腐な表現だが「多感な青春時代」だから、当然と言えば当然だ。ただし、当時の富士高校には独特の不思議な熱気があったように思う。
それはいまにして思うと「学校群制度」という妙なシステムが影響していたように思うのだ。
学校群というのは当時の都立高校の入試制度で複数の学校を「群」にして、合格者はどの学校に行くのかわからないという方式である。これは、学校間格差の解消を狙ったものだったらしい。
富士高校は西高校と二校で「32群」であった。西高校は元男子校の府立十中で、富士高校は旧第五高女だ。募集人員も西は男女比が3:2くらいだったと思うが、富士は50:50。中三の受験時に男子の多くは「できれば西」という心情だったように思う。
「ソトコト」という雑誌の最新号の広告にこんなフレーズがあった。
『東京を離れる人がふえている。とくに「勝ち組」と呼ばれる若者が、大企業や都会を離れ、地方の人と新しい生き方を始めている。』
この号の特集は「移住大特集~日本の環境ユートピア」ということで、こういうコピーになったわけだ。
ソトコト、という雑誌は「LOHAS」がコンセプトだ。そういえば、このLOHASって意外とアルファベットの由来を知らない人もいる。学生にLife of~まで教えたら「Happy and Smile」と答えられたこともある。妙に納得感があるけど。
で、僕が気になったのはコピーの件だ。そうか、LOHASは「勝ち組」のものになったのだなあ、という感慨とでもいうのか。そもそもソトコトという雑誌に「勝ち組」という言葉が出てくることにも違和感はあるのだけど。
しかし、それは事実なのだろう。実際LOHASはカネがかかる。というか、時間も含めて余裕がないと難しい。
リーマンショック以降、米国で”comfortable food”が人気になっているというニュースを見たことがある。このcomfortableというのは心地よいというよりは「なじみ深い」とでもいうべきニュアンスで、ホットドックやハンバーガーのことだ。つまりjunk foodのことなんだけど、要するに不況となればまずは腹を満たすことが優先というなのだ。
去る9月30日に、父が他界した。今年は、年初から父の健康状態がいろいろと思わしくなく、僕は初めての経験に直面していた。死去の前後も含めて、仕事への影響を最低限に抑えられたのは、今にして思うとわずかな救いだった。
一ヵ月が過ぎて、この間も単行本の入稿やクライアント・ワーク、大学の講義などは普通に流れていた。合間を縫って、色々な手続きをおこなって、一段落したところだ。
父は、典型的な「戦後日本の男」だった。会社員だったが、家のことは母に任せきり。夜は遅く、週末は寝坊するので、子どもの頃「父と二人」という記憶がほとんどない。後になって思うと、それほどのワーカーホリックでもなかったのだろうが、高度成長期は普通に働いても会社漬けになってしまうものなのだ。また、同居していた祖父があちこちに連れて行ってくれて、典型的な「お祖父ちゃん子」だったことも影響しているだろう。
僕が小学校に入る前後だったかと思うが、新聞のチラシに「塗り絵」があった。当時日立の「キドカラー」というカラーテレビのキャラクターで、オウムの「ポンパ」君というのがいたのだが、その塗り絵である。
僕はその塗り絵をこしらえた。そして、電器屋まで行くと何かもらえるようなのだが、その店が当時の年齢ではかなり遠かった。今にして思うと歩いて20分弱程度の所なのだが、子どもにはかなり未知の世界だったのだ。
そして、どういう経緯かは忘れてしまったが父が一緒についてきてくれた。店で何をもらったのか、覚えていない。ただし、父と二人だけで歩いたことはよく覚えている。
そして、その後はそういう記憶もないが、それを不満に思うこともなかった。
ただ、二人で歩いたことは嬉しかったのだろう。未だに「ポンパ君」のことはよく覚えている。