2011年09月アーカイブ
(2011年9月21日)

カテゴリ:世の中いろいろ

クルマを買い替えることにした。欲しいクルマはハッキリしている。初めて買うメーカーなので、まず試乗に行くこととした。名門国産メーカーだが、一時期窮地に陥り、海の向こうからのカリスマ経営者によって再生された企業である。
試乗車がある場所を検索したら、隣の駅の店にある。土曜の午後に妻と訪れた。
入ると客が二組。一組は営業が応対。もう一組はサービスが応対していた。
シーン、としている。他に店員はいない。接客中の二人は、全くこちらを見ない。
奥の受付まで歩いて行った。誰もいない。
さて、どうしたものか。と思ったのだが、呼ぶ方法もない。
「ごめんくださ~い」
とは言わなかった。やがて、サービスの人がこちらを気にしている。試乗の件を伝えたら、やっと呼んでくれた。
「○○○を試乗したいのですが」
「すいません。今は置いてません」
「……」
HPの掲載の件を謝ることもなく、他の店を探します、とかもない。
さて、どうしようか。と思い、別の店に電話して試乗車を確かめてから行く。今度はちゃんと店員が出迎えた。当たり前なんだが、いい店に見えるのがすごい。
試乗して顧客カードを出されたので、とりえずメールアドレスだけ書いた。
その後、まったく連絡はない。
冷やかしと思ったのか、それならそれでもいいんだけど、この店もどうかなという気になる。
結局、3軒目でようやく真っ当な人に出会えたので、ここで買うことにした。
しかしここまでの仕打ちというか、ひどい対応でありながら買いたいクルマを作っているのはすごいと思うんだが、大丈夫なんだろうか。どうやらこの会社はかなりの国内シェアアップを今後狙っているという。
しかし「土曜の午後に客が来ても誰も出てこない販売店」をドンと構えているような状態で、シェアも何もないのでは。一応心配してみるのである。もうすぐユーザーになるわけだし。
「今こそモノづくりの底力を」
うん、とてもいいメッセージだと思う。CMもいいと思った。ところが現実は大変だ。
「今やモノ売りの底割れが」着々と進行しているようなのである。
がんばってほしい。いいクルマ作っているのだから。



「博報堂を辞めました」という文章を読んだ。自分も同じ経験をしているのだけれど、経緯を書いたことはない。というか、辞めた頃に理由を聞かれるのだが、講演会向け、友人向け、得意先向けとかいろいろ言っているうちに、わかんなくなっちゃったのだ。まあ、理由がいくつかないと大きな決断はできないんだけど、段々と辞めた理由を忘れている気もする。
だから、ああやって宣言できるのって何かすごいなとか思う。ただ、途中の「エリート街道」というのは思わず苦笑した。博報堂がエリートかどうか、とかそもそも現代においてそんな街道があるのかという突っ込み以前に、あの言葉を一人称で使ったのは初めて見たからだ。
そのことはともかく、件の文は「肩に力が入った」感じで、それは一般的に褒め言葉ではないのだけれど、でもいろんな意味で読み手を黙らせるものがあった。それは、真摯にものを考えた人ではなくては、書けない文だからだろう。
それにしても、「博報堂を辞めました」って、妙に語呂が良くって「電通を辞めました」だとなんか違うな、と思ったら「七五調」なんですね。だから、前に五文字つけて「古池や 博報堂を辞めました」でも「雀の子 博報堂を 辞めました」でも、ほらいけるでしょ。って全然いけてないけど。
「秋深き 博報堂を 辞めました」うむ、なんか妙にしみじみする。
もちろん語呂がいいから辞めたわけじゃないんだろうけれど、新平さん、広い海へようこそ。



(2011年9月14日)

カテゴリ:マーケティング
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業界ではよく使われているのに、誤解にまみれている言葉というのがあって、マーケティングだと「ニーズとウォンツ」はその代表格かもしれない。
先に話題になった、インダストリアルデザイナーの奥山清行氏のこちらの講演でも、この言葉が出てきたのだが、ちょっと不思議な使われ方だった。少なくても「ウォンツ(原表記ワンツ)が和製英語」というのは、違うだろと。
しかし、この2つの言葉の混乱はコトラー本の訳にも由来すると思っている。マーケティングの旧約聖書とでもいうべき「マーケティング・マネジメント」には「ウォンツ」という単語は出てこないのだ。
じゃあ、どうなっているかというと、こう書いてある。
「マーケターは標的市場のニーズ、欲求、需要を理解しようと努めなければならない」
英語だと、needs ,wants, demandsだ。needsはニーズとカタカナだが、wantsは「欲求」になる。
ところが、needsという単語は往々にして「欲求」という訳語がつく。マズローの「自己実現欲求」というのもneedsの訳語なのだ。で、コトラーの本にもマズローは出てくるのだが「自己実現ニーズ」となっている。
そういうこともあって、ニーズが「必要なもの」でウォンツが「欲しいもの」という誤解もあるのだろう。その上、マズローを引っ張り出して「高次の欲求がウォンツ」とかいうのは、何というか、まあ単なる「嘘」だ。
そのあたりのことはネット上にも怪談が溢れているが、「本当の定義」も書かれているこちらのページあたりがまとめられていると思う。
しかし、奥山氏の講演を最後まで読むと単純な結論が出てくる。それは「ニーズやウォンツの定義を知らなくても凄いモノは生み出せる」ということだ。定義が重要なのではない。それは辞書の編集者が、文章を書けるとは限らないということと同じなのだ。



どうしても気になることなんだけど、そもそも「生命と経済」って対立的に語られるものなんだろうか。
昨日、大江健三郎や坂本龍一らが「原発再稼働をやめて」と声明を出したという。あの惨状を見れば、そう考えることが特段偏った考えではないと思うのだけれど、記事にあったこの一節が気になる。
「経済活動を生命の危機より優先すべきではない」
経済=お金であり、経済学=お金の学問のように考える人がまだ多いのかもしれない。しかし、経済というのは人の生命を支えるために存在し続けるものだ。
電力が不足すれば、たしかに経済活動は停滞する。しかし経済の停滞は、決して生命を救わない。リーマン・ショック後に、どのようなことが起きたかを思いだせばすぐわかる。
放射能の影響を最も受けるのは、子どものような弱者だ。しかし経済停滞で影響を受けるのも、また弱者である。
そういう想像力、というか常識が欠落したまま「経済か生命か」という誤った二項対立が流通している。そのままでエネルギー問題は前進しない。そのことをまず共有しなければ、何も進まないのに極端な意見が好まれる。安全で安定した生活を望む人にとって、本当の敵がどこにいるのかを考える時だと思う。



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フジテレビと民放業績についての記事だが、とりあえずデータ分析は最終回。
今日見ていただきたいのは、在京各局の年間視聴率(プライムタイム)を2004年と2010年で比較したものである。データの出所は、TBSのホームページだ。
まず一見するとわかるように、すべての局が視聴率を減少させている。6局合計が72.2→63.2だ。ゴールデンでも同じ傾向で全日はもっと厳しい(詳しくはこちらの下の方)。
で、もっとも派手なのはTBSで12.9→9.9と3ポイント減少。その逆がテレビ朝日で12.3→12.0と0.3ポイントに留まっている。
フジテレビは14→12.6だが、2004年から7年連続でいわゆる「三冠王」である。
ただし、この三冠も決して安泰ではない。それはまず、全体の視聴率が減少していること。それに加えて、他局が追い上げているということである。
そのことをわかりやすく見るのであれば、「6局内シェア」がいいのではないかと思って分析すると面白い風景が見えてくる。

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まず目立つのはTBSの減少である。テレビ東京も厳しい。そしてシェアを伸ばしているのがテレビ朝日。そしてNTVだ。つまり総視聴率減少の中で、踏みとどまっていることがわかる。特にシェアで見ると、上位3局は1ポイントの中にひしめいており、「3強」ということだ。
もっとも、これが売り上げに反映されないことも事実だ。セールスの現場でフジテレビの人気はまだまだあるわけだが、ジンワリと構図は変化している。かつては明らかに1馬身以上離していたけれど、半馬身から首の差にひしめいているのが今の視聴率競争の状況だ。
ここまでの数字を見てみると、フジテレビの課題は「民放全体の課題」であり「トップ企業ならではの課題」ということがわかる。

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