震災直後の「自粛ムード×停電」という状況が少し落ち着いた頃から「○○の役割」というのが目につくようになった。
周囲でもメディアでも結構目にしたのは「音楽の役割」「スポーツの役割」などのフレーズだろうか。つまり、アートやエンタテインメント、スポーツなどついつい「不要不急」とされてしまいがちな業界の人々が自問を始めたようなのだ。
その結果、チャリティーイベントなども多く行われるようになって、それはいいことだと思っている。
ただ、この「役割」ってあまり考えすぎても仕方がないように思うのだ。
「こういう時だからこそ、音楽は人々を勇気づける役割がある」というのも、正直僕は疑っている。あの混乱の中で、音楽を聞く気にはなかなかならない。やはり音楽は、楽な気持で聞きたい。
美しい歌声が人々を癒したり、スーパープレーが勇気を与えるということはたしかにあるだろう。ただ、残念なことに被災の現実は何も解決しない。
「自分にとって何ができるか」と考えることも大切だけれど、「自分がいかに無力なのか」を自省することもまた大切なのではないか。そう思ったのは4月1日に青山学院で行われた、「東北関東大震災の被災地を覚えての祈祷会」に参列したときだった。
「自らの無力と向き合い祈る」ということこそ、実は自分にとって糧となるのではないか。そんなことを痛感した。「何ができるか」と考えてもがくよりも、「何もできない」ことから見つめ直すことに、意味があるのではないか。
だから、祈る。
今の日本人の殆どは「祈る」ことが生活の中に組み込まれていない。地震の惨状をメディアで知っても、教会や寺院に行こうとした人は少なかっただろう。「神に祈る」機会や方法がわからないままに、自責の念ばかり強まってしまうことは決して幸福ではない。
あの地震が「人知を超えた」ものだったのであれば、「祈り」こそがまた人々にとって必要なのではないかと、改めて思う。
2011年04月アーカイブ